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2020年6月

2020年6月 6日 (土)

11村山実

村山さんの選手時代は知りません。
というか全盛期は生まれてないですね。
引退試合も僕は野球に興味を持つ前の出来事です。
最初の出会いは小学生のときに買った野球入門。
そこに村山さんのオフのトレーニング方法が紹介されていました。
初版が発行されたときにはまだ現役だったのでしょうね。
冬の間はとにかく走る。
舗装された道路は膝を痛めるから
土手やグラウンドの土の上を走ろうと書かれていました。
 
背番号11は永久欠番になっていることからも
村山さんの阪神時代の功績がうかがい知れます。
大卒で222勝ってすごい記録ですからね。
子どもの頃の印象は日本テレビの解説ですね。
「あれはファウルだったですねぇ」
それがもう代名詞というかね。
昔の本や古い時代の映像を見て、
「あぁ、やっぱりかっこいいなぁ」と思いました。
昭和45年かな?防御率0点台を記録しています。
選手としては晩年だと思いますが、
1点取れば勝ちですからね。
 
そんな村山さんが阪神の監督に復帰したのは昭和の最後でした。
バースがシーズン途中で退団し球団代表が自殺。
そして掛布もシーズン終了を待たずして引退を発表。
何も見るべきものがないというシーズンでした。
数年前の優勝は何だったんだろうか。そんな気持ちでしたね。
翌年、村山監督はチームの若返りを図りました。
佐野、田尾といったベテランから
大野、中野、和田といった若手にチャンスを与えました。
平田や木戸といった中堅すらも出場数が減ったと思います。
新外国人のフィルダーが大活躍し3年目のキーオも大車輪の活躍で
チームはなんとか5位に浮上し最下位を脱出しました。
でもそれだけだったという印象です。
 
今も覚えているのは神宮球場のラストゲーム。
このとき村山さんの退任が決定していました。
このゲームで阪神は快勝しています。
ゲーム内容は覚えていませんが圧勝しました。
この試合は生で観戦しており、
試合後に3塁側内野席前を通る村山さんには
阪神ファンの惜別コールが鳴り響いていました。
僕らも外野席からムラヤマコールを叫びましたが、
村山さんは選手通用口からくるっと振り返り、
帽子を振って僕らに応えてくれたことを本当によく覚えています。
満面の笑みでした。遠目にもそれはよくわかりました。
 
阪神大震災で村山さんは自宅もオフィスも大きな被害を受けています。
でも近所の人たちに炊き出しをしたりしていたニュースを見ました。
激情家ですが他人に優しく思いやりのある方です。
そんな村山さんが阪神の復活を見る前に亡くなってしまったのは本当に残念でした。
地震の心労が重なったのも影響していると思います。
どうか天国から若い猛虎たちに叱咤激励してやってください。

2020年6月 4日 (木)

33大野久

85年の優勝時、一時的に戦列を離れた真弓の代役として
1番打者として起用されたのがルーキー大野でした。
たしかホームラン打ったんじゃなかったかな。
ただ、当時の阪神は選手層が厚かったので
なかなかスタメンでは起用されませんでした。
代走や守備固めで起用されても少しチョンボが多かったような・・。
 
村山監督が就任すると少年隊として売り出されました。
和田、中野と大野のトリオです。
足は速かったしレギュラー2年目には3割を打ちました。
ケガをして開幕から出遅れたのが響いたのか
その年のオフにトレードでダイエーへ。
このトレードは本当に阪神は損をしました。
大野は盗塁王、池田はリリーフで復活。
一方、移籍してきた藤本修は未勝利、
あとはもうほとんど戦力になりませんでした。
だから大野の阪神時代ってとても短いんですよね。
 
背番号が2に変更されてから急にダメになったような。
阪神の背番号2はあまりいい番号じゃないんですよ。
柏原も1年だけの活躍で大野も短命。
高橋慶彦、松永、平尾とパッとしませんでしたね。
城島も1年だけだったし。
 
大野は引退後にアマチュアの指導者として話題になりました。
東海大牛久だったかな?
いろいろ大変みたいですが頑張ってほしいな。
在籍期間が短かったのでこれぐらいしか書けませんが、
けっこう大野は好きだったんでね。
 
韋駄天大野が突撃 嵐を起こせよレッツゴーレッツゴー
セカンド サードにホームスチール 大野は止まらない♬
 
この応援歌、大好きでした(笑)

56御子柴進

やや下手気味のサイドスローの御子柴投手、懐かしいですね。
まぁ、ここで語る選手はみんな懐かしの選手ばかりですが。
ずっと松商学園と思っていたんですが違いました。
1年目で1軍の勝ち投手になっているんですね。
そうはいっても入団3年間で登板数は10試合にも満たず。
阪神の弱体投手陣で出番がなかったのはまだプロの体じゃなかったのでしょうね。
4年目に10試合以上登板して1軍に定着し始めます。
中日とヤクルトに強かった印象があります。
確か唯一の完封勝利はドラゴンズ戦でした。
あの時は阪神の投手が3試合連続完封をしたんです。
それも継投ではなく一人でね。
中日3連戦なのかカードをまたいでなのかは覚えていませんし、
御子柴と久保、もう一人がどうしても思い出せないんです。
89年だから仲田あたりなのかな。
 
得意チームが限定されているので先発ローテーションに固定されることはなく、
もっぱら中継ぎ要員でしたが優勝を争った92年は内容も良かったです。
当面の敵であるヤクルト戦の相性の良さを買われてよく投げました。
先発起用したらもっと面白かったと思うんですけどね。
翌年はさらに登板数が増えましたが防御率は悪化しました。
リリーフには葛西と伊藤敦という同タイプがいたこともあり
だんだんと御子柴の活躍も少なくなりました。
特に引退試合などはすることなくマウンドを去ったと記憶しています。
コーチとしては失格の烙印を押されてしまいましたが、
岡田監督の広報として時々顔を見せました。
御子柴はかなりのイケメンでもっと活躍していれば
さらに人気が爆発したと思いますね。
真弓監督のときからはスコアラーとして阪神を支え今に至ります。
やはり時々テレビに映るんですよね。
すっかり白髪頭になった御子柴を見て
時代は流れたなあとちょっぴり寂しくもなりました。

2020年6月 3日 (水)

28中田良弘

85年の優勝の功労者ですね。
ゲイルとともに弱体先発陣を支えました。
ルーキーのときはけっこう球速もありましたが、
故障もあって緩急を使って打たせて取るピッチングにチェンジしました。
中田といえばやはり無傷の18連勝でしょう。
こう書くと楽天のマーくんみたいですけど、
中田の場合は足掛け5年かかっての記録です。
それもリリーフで投げるとなぜか勝ちがつく幸運がありました。
でもその幸運がちょうど85年に当たったのはラッキーでしたね。
勝ち運を買われたのか途中から先発に回りました。
とにかく負けなかったですね。
最終的には5敗していますが、12勝しているから十分です。
投げていくうちにしっかり試合を作るようになり、
甲子園の広島戦ではなんと初完封。
吉竹が回転しながら飛球をキャッチしたのを覚えています。
中田がグラブを振ると吉竹もそれに応えてかっこよかったですね。
 
この年ですべての運を使ってしまったわけでもないでしょうが、
翌年からは4年間未勝利でした。
登板数が少ないところを見ると故障をしたと思われます。
さすがにもう無理かなと思いましたが、
90年に抑えで復活し10勝を挙げています。
ただ、先発の勝利を消して自分に勝ちがつく展開も多かったです。
抑えで防御率3点台半ばだから威張れた数字ではないですね。
それからはまた未勝利のシーズンが続き、
94年をもって引退しました。
 
ドラフト1位としてはちょっと物足りない通算成績ですが、
85年の優勝をもたらすために存在したような投手でした。
引退後は現場復帰することなく解説をしていましたが、
最近はあまり見かけなくなりました。
あの優勝を思い出すとき必ず思い浮かぶ投手なんですけどね。

2020年6月 2日 (火)

14ジョージ・アリアス

2002年から指揮を執った星野監督が連れてきたのが
オリックスを退団したアリアスでした。
パリーグ時代のプレーもよく見ていましたけど、
あのパワーもさることながら、
守備がものすごく堅実な印象があります。
内野はどこでもこなせる印象がありましたね。
グラブさばきが柔らかくてスローイングが正確でした。
阪神移籍後はもっぱらファーストでしたけど、
片岡が故障したときにはサードを守っていました。
 
バッティングはとにかくよく飛ばすなぁと。
シーズン通して平均して2割5分、35本前後のホームラン。
良くも悪くもこの数字を判で押したように続けました。
ただ巨人戦にはやたらと強かった印象があります。
調子のいいときは右中間に逆らわずにうまく打っていましたね。
長距離打者らしく1ヶ月ぐらいは手がつけられないぐらい打ちまくり
そこからスランプに入るとまた長くなる選手でした。
 
ただ、星野監督時代の活躍が鮮やかで
アリアスがいなかったら優勝できなかったんじゃないかな。
翌年、岡田監督とはちょっとソリが合わない感じで退団しましたが、
個人的には残念でしたよね。
アリアスってけっこう二枚目でかっこよかったです。
退団後、一度巨人で復帰しましたが活躍はできませんでした。
引退後はアメリカで少年野球の指導者をしています。
その様子を動画で見たのですが相変わらず二枚目でした。
日本のことを今も懐かしんでくれて嬉しかったです。
オリックスのこと、そして阪神のことを楽しそうに思い出していました。
巨人時代のことはなかったことになってます(笑)。
 
前述のように守備はうまかったなあ。
新人時代に少しスローイングに難のあった鳥谷がうまくなったのも
アリアスとシーツが一塁にいたからでしょうね。
藤本もアリアスには救われたと思います。
ジョージにはまた日本で指導者になってほしいなと思っています。

20伊藤宏光

万年エース候補、ブルペンエース、年イチ投手。
伊藤の評価ってそんな感じでしたね。
すらりとした体型と長い手足。
惚れ惚れするストレートと背番号20。
どう考えてもエースを張れる器だと思いました。
よく改名する投手でしたが、
85年の優勝したときの名前で紹介したいと思います。
 
ドラフト1位の快速球右腕でしたが、
なかなか勝てないピッチャーでした。
コントロールもそんなに悪くないし真っ直ぐは一級品。
気が弱いというか優しい面がプロで大成できなかった原因ですね。
良くても勝ち負けがトントンで、
大きく負け越すシーズンもよくありました。
期待されたドラフト1位で通算54勝。
ちょっと期待外れですね。
 
ただ、年イチ投手の名に相応しく
本当にシーズンに1度ぐらい素晴らしい投球をしました。
2塁を踏ませないぐらいの完璧な投球を。
背番号20をはく奪された88年、
伊藤は4月から鬼気迫るピッチングをしました。
背番号14をつけた伊藤は2試合連続完封勝利。
3試合連続完封目前で1塁ベースカバーに入ったときに
ランナーに足を踏まれてしまったのが不運でした。
止血をしてマウンドに上がりましたが、やはり降板。
その後はまたいつもの伊藤に戻ってしまいます。
このときに足を踏んだ打者走者が大洋の池之上。
後にスカウトとして阪神へ来たのは何かの因縁でしょうか。
90年代に入っても先発のマウンドに立ちましたが、
往年の球威も失せており引退。
昭和の時代のタイガースを支えた
伊藤、工藤、中田らの引退は寂しいものがありました。
その後は会社員や現場復帰、そして解説者と
意外とマルチな活躍をしています。
解説を聞いていても気が優しいのがよくわかるというか、
選手に対して厳しいことはあまり言わないですね。
常勝チームのときの選手たちも好きですけど、
低迷期を支えた選手たちもやはり思い出深いものがあります。

26工藤一彦

186センチの巨体で長く阪神のマウンドを支えた投手でした。
高校時代は四天王と呼ばれた逸材でしたが、
人気ナンバーワンの定岡よりも長く活躍し
4人の中では勝ち星もいちばん多く積み上げたのが工藤です。
工藤の全盛期はちょうど自分の中学時代と重なります。
当初は背番号19でしたが、ほとんど活躍できないまま
移籍してきた小林繁のためにはく奪されました。
26に変更させられて闘争心に火がついたのか、
一流投手として成長していきました。
83年には13勝を挙げて3完封。立派な数字ですね。
中堅となってからはやや故障に泣かされてしまい、
85年の優勝したシーズンはもっぱら中継ぎをこなしていました。
開幕当初は先発でバックスクリーン3連発のときの勝ち投手です。
 
翌年も中継ぎを中心に5勝負けなし。
ただ防御率はあまり良くない投手で、
低めに集めて打たせて取るタイプでしたね。
87年は最下位に沈んだタイガースですが、
この年の工藤は先発に復帰して2完投。
5月ぐらいの甲子園の大洋戦で久しぶりの完封勝利を挙げました。
この試合はテレビで見ていましたが、
工藤のさして速くもないストレートを
「真っすぐが速くて怖くなった」と言って途中退団した選手がいました。
大洋のレスカーノという選手だったと記憶しています。
まるで草野球のおじさんが投げている感じのフォームでしたよね。
力感もスピードもあまり感じませんでしたが、
同じ時期に主力を務めた伊藤と比較すると、
勝率の良いピッチャーだった印象があります。
好投しても勝てない伊藤とは対照的でしたね。
 
村山監督が就任すると登板数が激減します。
ファームでも一生懸命投げていたことは
当時愛読していた月刊タイガースでも知っていました。
特に引退試合もすることなくひっそりと辞めたような気がします。
勘違いかもしれませんけど。
引退後は現場復帰をすることもなく
ずっとテレビの解説者として活躍しています。
2005年の優勝を決めた巨人戦でも解説していましたね。
引退してしばらくして竹内が26をつけたときは
上背の大きさといい風貌といい工藤が戻ってきたような感じがしました。
華やかな活躍は短期間でしたけど伊藤とともに忘れられない投手です。

1985 あの日のこと

昭和60年10月16日。
その日のことは死ぬまで忘れることはないでしょう。
阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たした日です。
当時はインターネットもありませんしJリーグも発足していません。
神宮球場でナイターを見るときに実業団時代のサッカーは開催されていました。
球場の開門まで時間が余るのでふらっと競技場へ行くと
サッカーはなんと入場無料。その上お弁当まで無料配布。
そんな時代でした。
プロ野球がまだ娯楽の王様だった頃なんですね。
若い人には想像ができないと思います。
毎日、地上波で巨人戦が中継されて地方局でも中継がありました。
ラジオはほとんどがプロ野球の中継です。

調べてみるとその日は水曜日でした。
高校2年生の僕は当然学校に通っています。
6時間の授業を終えると3時過ぎ。
違うクラスの宇田川と長谷川と3人で急いで神宮へ。
新宿駅から総武線に乗り換えて千駄ヶ谷駅へ着くと、
すでに駅の近くまで当日券を求める行列ができています。
もう絶望しかありませんでした。
ダメで元々、最後尾の札の後ろへ並びます。
途中で列が詰まるのですが、
物を置いてどこかへ買い物に行った人もいます。
ラッキーと思いながら小走りで列を詰めます。
 
「これは入れないよなぁ」と宇田川に言いました。
「神宮って3万人ぐらい?」と聞かれたけどわかりません。
球場が見えてくるようになり少し希望が灯ります。
チケットが売り切れるならおそらくそのアナウンスがあるはず。
チケット売り場が近づくとさらに希望の明かりは大きくなりました。
結局、チケットを入手しましたがさすがにレフトスタンドは無理。
センター寄りのライトスタンドで座席を確保しました。
阪神ファンばかりで本拠地のヤクルト応援団はほんのわずかでしたね。
 
ゲイルと荒木の先発で試合は始まります。
この年の荒木は投げるたびに内容が良くなってきました。
さすがに甲子園準優勝投手ですね。
小学校の頃に準優勝パレードを見にいったので好きな投手でした。
阪神打線は3回まで荒木の前に沈黙です。
先制された阪神の反撃は4回、真弓の33号。
史上最強の核弾頭の一発で同点にします。
6回にはバースの52号で勝ち越しますが、
重圧からかゲイルがヤクルト打線に捕まります。
考えてみればゲイルは前半戦と後半戦では別人で、
球種からクセからいろいろと見破られていた気がします。
福間から工藤、佐藤らの必死の継投で2点ビハインドで9回へ。
 
「今日はもうダメかもね」とちょっと弱気になりました。
ヤクルトもエースの尾花を投入しています。
9回先頭の掛布の打球は悲鳴とともにレフトポールを直撃。
もう割れんばかりの大歓声だったですね。
スタンドの人たちと抱き合って喜びました。
続く岡田がセンターオーバーの2ベース。
この打球もホームランかと思いましたけどね。
北村が慎重にバントで送り1死3塁。
平田に代わる代打は佐野でした。
長い間レギュラーを張ってきた佐野でしたが、
この日のスタメンは長崎に譲っています。
阪神一筋のベテランの登場でスタンドは湧きます。
そして佐野は見事に左中間へ大飛球を打ち上げました。
岡田が悠々ホームインして同点。
このときまだ阪神ベンチは引き分けで優勝と知らなかったそうで。
スタンドも自分らもよくわかっていません。
延長戦に入り阪神は中西、ヤクルトは左のエース梶間をマウンドへ。
両軍ともに必死の継投ですね。
そのうちスタンドでラジオを聞いていた人が
「引き分けでも優勝みたいやぞ」と言うと
応援のボルテージは一気に跳ね上がりました。
この頃、阪神ベンチにもその情報はもたらされたようです。
 
中西が角をピッチャーゴロに打ち取りファーストの渡真利へ。
渡真利はダイエーで引退し審判となり、今は阪神園芸で働いていますね。
その瞬間に阪神の優勝が決まり胴上げが始まりました。
宇田川がビールを買っているから仕方なく僕らもビールを飲んでいました。
学生服のままなんで今じゃ売ってくれないでしょう。
そこからは六甲おろしとヒッティングマーチの大合唱です。
「ヨシダ、ヨシダ、ヨシダ!」
ものすごい吉田コールの中で優勝監督インタビューが始まりました。
「セントラルリーグのために、その名に恥じない野球をやってきます!」
その瞬間、涙がぶわーっと流れてきました。
今、思い出してもちょっと涙腺が熱くなります。
阪神ヒッティングマーチ野手用に合わせて、
♬かっ飛ばせ吉田!広岡倒せ!
みんなが声を涸らして歌っています。
今みたいにいろんな色はありません。
黄色一色のスタンド。
ゲイルが「世界でもっとも感動的な光景」と言った黄色く染まるスタンド。
自分がさらに感動したのはヤクルトファンの人たちが、
「阪神優勝おめでとう 来年こそはスワローズ」
そう書かれた横断幕を掲げてくれたこと。
手書きじゃなくてちゃんと作成してくれた綺麗な横断幕でした。
あれは嬉しかったなぁ。まだ岡田さんが団長だった時代ですね。
 
優勝を決めてからは球場外でビールかけです。
ファン同士で頭から顔からビールのシャワー。
次の日登校したときにかなりビールくさかったと思います。
もうあれから35年も過ぎてしまいました。
あっという間ですね。
その間、長い暗黒時代を経て阪神は2回優勝しています。
いずれの優勝も嬉しかったですけど、
やはり生で見た瞬間は格別です。自分も若かったですしね。
この年は日本一を決めた瞬間も所沢で見ることができました。
凍えるほど寒かった西武球場の木枯らしは今も覚えています。
まさかその所沢に家族と暮らすことになるとは
当時、高校生の僕は知る由もありません。
あの感動をいつまでも忘れないですし、
自分が覚えているうちに若いファンに伝えたいと思いますね。

00亀山努

92年に阪神は突然息を吹き返しますが、
その原動力となったのが亀山でしょう。
4月の開幕からベンチ入りした亀山は
神宮のヤクルト戦で代走として出場し、
そのガッツ溢れる姿を評価されて巨人戦でスタメン起用されます。
僕も実際に見にいった試合でしたが、
凡打でも全力疾走でセーフをもぎ取り、
盗塁すればあのヘッドスライディング。
劣勢だった阪神は90年代最高の投手斎藤を攻め逆転勝ちします。
そこからの亀山の活躍はまさにシンデレラストーリーでした。
5月に加わった新庄とともに亀・新フィーバーを巻き起こします。
 
ちょっと掛布に似た打撃フォームで3割をキープし
時にスタンドへ放り込むパンチ力もあり、
オールスターにも出場しました。
このとき阪神の野手からは、
亀山、和田、久慈、八木、パチョレックが選ばれています。
最後は惜しくも2位でしたが、この年はいちばん熱かったというか、
阪神戦の情報をテレビ、ラジオ、あらゆる媒体でむさぼりました。
インターネット速報などない時代ですからね。
 
翌年は故障もあり低迷しました。
打球を追って味方と激突し骨折したこともありましたね。
気の毒だったのは外国人とポジションがかち合ったりしたこと。
二軍暮らしが長くなった亀山は自身の体調不良もあり、
結局は阪神を解雇されてしまいます。
あっという間だったですよね。たった一年だけの活躍。
もっと活躍していた印象があるんですけどね。
近鉄のテストを受けるも不合格で引退。
今は見る影もないぐらいに太ってしまいましたが、
OB戦ではクリーンヒットを放っていました。
まだまだ若いからといっても51歳ですが、
もう少し痩せないとまずいなあ。
頑張れ亀山!

5新庄剛志

こんな楽しい選手はいませんでしたね。
1軍デビュー戦の東京ドーム、
真っ黒な手袋で代打で登場した新庄は、
いきなりヒットを放ちます。
「この選手は人気が出そうだな」と思いました。
翌1992年は開幕一軍こそ漏れたけど、
三塁手オマリーの骨折で一軍に呼ばれてスタメン起用。
甲子園で有働から左翼ポール際にホームラン。
オマリー復帰後はセンターのポジションを獲得します。
となると中野がはじき出されたのかな。
この頃は赤いリストバンドが代名詞になりました。
湯舟が先発した広島戦で山崎の大飛球を飛び込んでキャッチしたり、
これも広島戦ですが最終回に大野からサヨナラホームランを打つなど、
亀山とともに一気にスター街道を登り詰めました。
 
ここからはもう主力選手として活躍しますが、
阪神のスター選手ゆえにマスコミからも注目されます。
自由奔放な言動が魅力でしたが、
藤田監督時代は遅刻して正座をさせられたり、
引退発言をしたりでいろいろ騒がせました。
野村監督時代にはピッチャーに挑戦したりするなど
またいろいろと話題を振りまきましたが、
成績だけ見ると少し物足りなさがつきまといました。
でもあれだけの守備力があって2割7分ぐらい打てて
25本前後のホームランを打つわけですからね。
それだけですごいなと思いましたけどね。
 
そしてあのFA宣言からメジャー入り。
ボビー・バレンタイン監督のもとでノビノビとやってましたね。
ただあの守備力はアメリカでも存分に発揮されていました。
楽しそうに野球をしている新庄を見て嬉しかったものです。
日本ハムへ復帰した後は持ち前のサービス精神で
北海道へ移転した日ハムを人気チームへ引き上げました。
引退試合はテレビで見ていましたが感動的でしたね。
引退後も相変わらずの言動ですが、
2020年はなんと現役復帰宣言しています。
トレーニングもしっかりしているようで本気みたいですね。
コロナ騒ぎで開幕すらできていない中で
新庄が復帰したらちょっと嬉しいかもしれません。

2020年6月 1日 (月)

54ジェフ・ウィリアムス

常勝阪神を支え鉄壁を誇ったJFK。
青い目のサムライと呼びたいのがジェフでした。
優勝を狙う星野監督は前年に防御率1点台を誇ったバルデスを解雇。
新たに獲得したのがルー・ポートとジェフでした。
当初はポートが抑えでジェフはリリーフでしたね。
ポートは故障してしまい解雇。ジェフが抑えを務めました。
はじめて見たのは横浜戦。
佐伯と対戦した場面を見た印象は、
「このボールは打てないな」でした。
70センチ近く曲がったんじゃないですか、あのスライダー。
セットアッパーの安藤と途中入団したジェロッド・リガンとの
リリーフ陣はもう打たれる気がしなかったですね。
 
リリーフながら息の長い活躍をしてくれました。
やや打たれる年もあったけど、
オフに肉体改造をしてストレートは150キロを超えました。
この頃、JFKの名前通り先陣を斬ったのがジェフです。
次に投げる球児のボールがさらに打ちづらくなるように
ジェフはさらに横から投げるようにしたそうです。
あの3人は本当に仲良しでしたが、
3人揃ってヒーローインタビューに登場したときもありましたね。
久保田が少しハラハラさせましたけど、
それでも90試合に投げて防御率1点台。
そのおかげで2005年の優勝がありました。
 
岡田監督時代の中日との激しい争いは本当に面白かったです。
あの時代の野球は毎日ワクワクしましたね。
6回を終えてリードしているともう余裕です。
JFKは絶対に打たれない。
今も誇りに思いますよ。
引退後も阪神の駐米スカウトとして活躍しています。
一度OB戦に来日して巨人相手に投げたけど
あの頃と同じフォームで嬉しかったですね。

6藤田平

鳥谷が2千本安打を達成するまで、
阪神で記録を積み上げた打者としては唯一の2千本安打達成者です。
僕が野球を見始めた頃はファーストの印象がありますね。
太腿の筋肉断裂で長く欠場しましたが
アメリカで治療をして見事に復活し首位打者にも輝きました。
凄いバッターでしたがホームランは2ケタ前後でしたね。
高卒2年目ぐらいに28本打っているのですが、
長距離打者の道を歩むことはなくミートに徹する打者でした。
 
阪神が優勝した翌年に入団して引退した翌年に優勝という
考えられないぐらいの悲運の名選手でしたよね。
タイトルも獲得し2千本安打も積み上げたのに。
僕は草野球を長くやっていましたが、
いつもお手本にしたのは藤田平と長崎でした。
左打者だったので本当に参考にさせてもらいました。
力みがなくてふわっと立ちながら確実にミートする。
最近だと片岡がそんな感じだったかな。
あれだけヒットを量産するわりにチャンスに今ひとつという印象もあります。
サードかレフトへのフライを打ち上げるイメージでしたね。
 
引退後は朝日放送で解説をされており、
その後は二軍監督として復帰しましたが、
ここから先はもう阪神の黒歴史になりましたね。
おべっかを使わない人なのでいろいろ誤解されて可哀そうでした。
監督に昇格しても翌年のオフに解任。
そのときの様子がお家騒動として面白おかしく報道されました。
新庄正座事件はね、あれは選手が自分たちで罰則を決めたことであって
藤田監督がさせたわけではありません。
イチローが連続無三振記録を作ったときに藤田平の名前が挙がりましたが、
本当に三振が少なくてバットを折らない名打者でしたね。
 
あのゴタゴタのせいで印象がずいぶん悪くなってしまい
解説でもあまり見ることはなく、独立リーグの監督もすぐに辞めてしまいました。
ただねぇ、タイガースとしては偉大なOBなので
もっと大事にしてほしいなあと思います。
掛布や岡田もそうですが藤田も立派なレジェンドですからね。

24佐藤秀明

きらびやかな活躍をしたスターではないですが、
ルーキー佐藤の活躍は今も忘れることはありません。
85年の優勝は打線のおかげではありましたが、
たしかに先発は頼りない阪神ですがリリーフは奮闘しました。
中西と山本和へ繋ぐ福間、工藤、藤原と新人の佐藤たちの活躍は見事でした。
 
無名と言っていい左腕ですがドラフト2位だったんですね。
当時の阪神のスカウトの眼力には恐れ入ります。
記録をたどると1年目の5月に一軍昇格し日本シリーズまでベンチ入りしました。
同じ左の福間が長年の勤続疲労で防御率が悪化していたので、
佐藤の踏ん張りはとてもチームにとっては大きいものでした。
中継ぎに徹したおかげで阪神在籍時は2勝しかしていませんが、
佐藤が登板するときの妙な安心感は覚えています。
翌年にプロ初勝利を挙げましたが、掛布がヒットを打って勝った気がします。
 
2年目までの奮闘で故障でもしたのか登板数が激減し、
村山監督時代に近鉄へトレードされました。
まだ20代の佐藤とベテランでトウの立った住友とのトレードは
何か阪神の迷走を見るようでがっかりしましたね。
村山監督へ辛辣な言葉を吐いて佐藤は近鉄へ移りました。
そこで見事に復活し7勝を挙げて近鉄の優勝に貢献します。
仰木監督の信頼も厚く80イニングも投げていたんですね。
91年を最後に引退した佐藤は甲子園の近くで飲食店を経営していました。
やはりタイガースのことを忘れていなかったんだと思いたいです。
焼肉屋を経営する姿が夕刊紙で掲載されて嬉しかったことを思い出します。
それからずっと後になり佐藤が亡くなっていたことを知りました。
46歳の若さでした。
とても悲しかったですね。優勝メンバーですから思い出がたくさんあります。
あまり語られることのない選手ですが、
せめて自分が思い出を残すことで佐藤のことを思い出してほしいと思いますし、
知らなかった人にはぜひ知ってほしいと思った次第です。

21遠山昭治

「1位清原和博 内野手 PL学園高校」
パンチョ伊東さんの声が今も聞こえます。
高校2年の秋、阪神が日本一になった年のドラフト会議。
残念ながら清原は競合の末に西武ライオンズへ。
阪神が外れ1位で指名したのが遠山でした。
そのときの遠山の姿は今も忘れられません。
退部届けを出したあとだから髪はハリネズミみたいで
ドテラを羽織って自宅でカレーライスを食べながら、
「清原君を外したら僕やと聞いてましたから」
図太いやつだなぁと思いました。
藤崎台球場で大ホームランを打ったそうで
打者として獲得したのではないかとも言われていました。
 
86年、新人の遠山は当初2軍スタート。
でも先発で完璧なピッチングをしていました。
4月の終わりに1軍昇格しリリーフで登板し
プロ初勝利を先発した広島戦で飾ります。
甲子園の中日戦でなんと初完封。
この試合を僕は床屋のラジオで聞いていました。
途中でマウンドを降りてアナウンサーも心配していましたが、
ベンチリポーターから「遠山投手は鼻血を出したようです」
その報せを受けたアナウンサーが「ああ鼻血ブーですか」と。
NHKですからね、このやり取りには笑いました。
散髪を終えて家に帰り続きを聞きましたが、
この日のことは本当によく覚えています。
終盤にも広島相手に完封して高卒ながら8勝。
同期の巨人の桑田が4勝でしたからね。
阪神はいいドラフトをしたものだと思いました。
 
ただ、翌年からはまったくダメでしたね。
完封も完投も新人のときだけしか記録していません。
あの1年で燃え尽きてしまったような感じでした。
ロッテにトレード移籍して打者転向をして
そこも解雇されて阪神の入団テストを受けにきました。
ここでもドラマがありましたね。
当初はかつての同僚仲田幸司が内定だったようですが、
新人のときに監督だった吉田監督が復帰していたのが幸いしました。
「おまえ、ちょっと投げてみぃ」
久しぶりに投手として投げた遠山がなんと合格し仲田は不合格。
最初の1年目は投手として体を作り直せと言われたようです。
そして野村監督の時代に遠山は奇跡の復活を遂げました。
あの松井秀喜が「顔を見るのも嫌」「夢にまで出てきましたよ」と
嫌そうに言っていたのを覚えています。
巨人の打線が松井、清原、高橋だったときに
遠山、葛西、遠山の継投が編み出されました。
弱い時代だったけどあれは痛快でしたね。
見事にはまりましたからね。
 
星野監督就任1年目の2002に遠山は
長くブルペンを支えた伊藤敦、弓長らと引退します。
泣きながら星野監督に肩を抱かれた姿、感無量でした。
よくぞ、ここまでカムバックしたなぁと。
こんな劇的な人生ってあるんですね。

28福原忍

江夏の背番号を背負ったルーキー福原、
その快速球を見たときに一筋の光明を見出したものでした。
野村監督が3位指名できたのをとても喜んでいたのを思い出します。
「おまえ、なんで3位まで残ってたんや」
そんなことを聞かれて苦笑いしていましたね。
150キロを超える速球を投げる投手は当時の阪神にはいませんでした。
すごいなあと思ってみていたものです。
ただ、一本調子で炎上することもままありました。
当時は暗黒時代ですからね。彼にはものすごい期待をしました。
順調に育ったのと違いますかね。
隔年に活躍するような印象がありますが、
肩かヒジだかを痛めて復帰してからはとても安定した投手になりました。
 
2003年はシーズン終盤に復帰して星野監督を喜ばせたものです。
日本シリーズも先発しましたね。
岡田監督が就任してからは先発の軸として投げてくれました。
カーブと緩急をつけた真っ直ぐで頭脳的なピッチングをしました。
以前から巨人に強い印象があり、
僕が観戦した試合でもドームで2勝しています。
そのうち1つは見事な完封勝利。
もう1つはJFKの助けを借りて巨人の連続試合本塁打を阻止した試合でした。
たしか上坂と矢野がホームランを打ったような記憶があるなぁ。
 
晩年はリリーフに戻りましたが、
とても晩年とは思えないほど速いボールを投げていましたね。
ブランコだったかな、オール真っ直ぐで攻めて三振に取ったのは
福原の真骨頂でしたよね。圧巻でした。
和田監督の時代は安藤とともによくブルペンを支えてくれました。
高校の先輩金本が監督を務めたときもリリーフの柱として期待されましたが、
春先から思うようなボールが投げられず引退。
引退試合はテレビ観戦していましたが、
もう自分も号泣しましたもん。
入団したときから知っている選手が引退するのは本当に寂しいものです。
今はピッチングコーチとして矢野監督を支えていますね。
第二、第三の福原をぜひ育ててほしいものです。

37永尾泰憲

永尾を覚えている人はもう少ないかもしれないですね。
地味だけどいい選手でした。
守備も良くて小技が上手でバッティングもいい
絵に描いたようなユーティリティプレーヤーでした。
最初はヤクルトに入団しセカンドのレギュラーを取っています。
近鉄にトレードされてここでも準レギュラーで活躍しています。
そして82年に阪神へやってきました。
僕が中2のときですね。当時はあまり覚えていないなぁ。
高校の頃に代打でよく起用されたことを覚えています。
85年も地味ながらいい場面で打ちました。
阪神の代打といえば川藤ですが、
吉田監督はここいちばんでは長崎か永尾を起用していましたね。
右の代打起用では弘田をよく使っていました。
 
こうしてみると所属した3チームで優勝しているんですね。
しかもヤクルトと阪神では日本一を経験しています。
永尾のキャリアハイは86年でした。
代打に出せばヒットという感じでしたね。
7月ぐらいまで代打成功率が5割超です。
それははっきりと覚えています。
バースが4割を超えていて永尾が5割。
倉敷か岡山かの大洋戦で代打ホームランを打ったとき
ヒーローインタビューで成功率5割について聞かれて
「自分でもよくわかりません」と控えめに答えていました。
懐かしいですね。なぜかよく覚えているんですよ。
 
この翌年に年齢的な衰えもあり引退をするのですが、
それからも阪神に残りコーチなどを務めていました。
そして九州担当スカウトに就任しています。
スカウト時代は残念ながら良い選手を獲得できませんでしたが、
退団後は高校野球の指導者として今も頑張っています。
あの童顔は今も健在でした。
お嬢さんもスポーツ番組に出演されたりしていましたね。
いつまでも元気でいてほしいです。

41伊良部秀樹

優勝を狙う星野監督の補強は貪欲でした。
1年目は片岡とアリアスを獲得しましたが、
4位に終わるとFAで金本を獲得し
トレードで下柳、野口、中村豊を補強、
前年防御率1点台の抑えバルデスを解雇して
ポートとウィリアムスを獲得しました。
何より驚いたのが伊良部の入団です。
 
もともと尼崎出身で阪神ファンだった伊良部ですが、
ロッテに指名され日本最速の男となり、
鳴り物入りでヤンキースに入団しました。
アメリカでの武勇伝はさておいて、
現地のマスコミを敵に回したこともあり日本へ復帰。
まっさきに動いた星野監督の誘いを受けて阪神入り。
ちょっと驚きましたよね。
「マジ?伊良部入ったの?」
友人とそんな会話をしたことを思い出します。
 
ちょっと太りすぎかな。関西のマスコミともめるかな。
そんな心配は杞憂に終わり、
シーズンに入ると見事な投球術で敵を翻弄します。
スピードは抑え気味でしたがコントロール抜群でしたね。
ぶっきらぼうで傍若無人なイメージがありますが、
チーム内では愛嬌があり若手の面倒見も良かったようですね。
久保田や球児はよくアドバイスをもらったそうです。
2003年の阪神投手陣の決起集会の映像を見たことがありますが、
生え抜きの藪が乾杯の音頭を取り、
移籍組の下柳が熱弁を振るい、そこに伊良部も軽妙なトークで参加して
最後の締めをエース井川が述べるという流れでした。
佐藤義則コーチが楽しそうに参加していたのも印象的でしたね。
 
シーズン中に内転筋を痛めて前半のような活躍はできませんでしたが、
この年は13勝し優勝を決めた広島戦でも好投しました。
翌年はまったく勝てず退団しますが、
まるでタイガースを優勝させるために帰ってきたような感じがします。
独立リーグで投げたりもしましたが引退後は悲惨でした。
あんなに明るくてピッチングの極意を知り抜いた人なのに
コーチとして現場へ戻ることなく命を絶ってしまいます。
異端児のレッテルを貼られて球界復帰もままならなくなったのも
マスコミの悪意ある報道が一端ではないかなと自分は思っています。
あの天才が次世代にその技術を伝えることなく去ったのが
返す返すも残念でなりません。

0中野佐資

活躍した期間は短くも印象に残る選手でした。
阪神で最初に背番号0を背負ったのではないでしょうか。
当初は13番でしたが村山監督に
「13はピッチャーの番号だ」と言われて0に変更します。
社会人出身のドラフト2位だからのんびりもできません。
背番号を変更した中野は村山監督の若返り政策もあり
佐野からレフトのレギュラーを奪います。
ホームランも2ケタをマークして打率も2割6分ぐらい打ちました。
勝負強い面があり巨人戦でサヨナラヒットを放ち
感極まった村山監督が号泣するシーンもありました。
賛否はありましたけど、完投したキーオを最敬礼で迎えたり
熱くて優しい監督だったという印象があります。
 
着実にレギュラーの道を歩むかと思った中野ですが、
相手の攻めも厳しくなり内角を執拗に攻められ
2ケタのデッドボールを受けた年もありました。
中村監督が就任した当初はまだスタメンでしたが、
どうも大野と中野は干されたような感じが今もします。
大野はダイエーへ放出され中野も出場機会が減りました。
東京ドームで観戦した試合で守備固めに入り、
難しい打球に飛びついて回転レシーブのような捕球をした姿、
なかなかかっこいいなあと思いました。
 
代打でしばしば使われましたが、
亀山、新庄らがレギュラーになるとさらに出場は減り、
まだ若かったのに引退しています。
年齢的に獲得するチームがあると思ったのですが、
90年代はじめの出場機会減少や
若くしての引退は今もちょっと腑に落ちない点があります。
引退後も指導者の道を歩むことはなく
郷里の栃木へ戻り働いています。
時々OB戦や野球教室には参加しているようですね。
中野だけではなく他にも力はあるのに使われない選手、
阪神に限らずちょくちょく目にします。
もったいないと思うし
日本社会の縮図みたいでちょっと嫌ですね。

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