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2020年5月

2020年5月30日 (土)

29江本孟紀

僕が野球を見始めた頃のエースが江本でした。
江夏もいましたけど先発投手としてはもう晩年。
小学校1年のオフに南海へトレードで移籍。
その交換相手がエモやんです。
すらっとした長身となかなかの二枚目。
かっこよかったですよ。
 
毎年2ケタ勝利を挙げて名実ともに阪神の主力となりました。
小林繁が移籍してきて2枚看板になるかなと思いましたが、
チームが小林中心に変化したことを感じ取ったのか、
だんだんと起用法も雑になってきたためか、
ちょっと投げやりな感じがしたのも事実です。
 
そして81年だったかな、82年かな。
有名な「ベンチがアホやから」事件が起きるわけです。
中西監督は打撃コーチとしては日本一優秀でしたが、
監督してはもう小心すぎてダメでしたね。
江本はそんな発言はしていないと言っていますが、
当時を知る人も少なくなり真相は闇の中です。
そこからが江本の真骨頂というか、才能が開花しましたね。
プロ野球を10倍楽しく見る方法を出版し大ヒット。
もちろんゴーストライターなんでしょうけどね。
テレビに引っ張りだこでルックスの良さもあって人気者に。
当時は阪神戦の中継をしても毒舌でしたが、
年齢を重ねてわりと温かい言葉をかけるようにもなりました。
政治家にもなったし本当に頭の良い人だったと思います。
 
阪神のエースナンバーって29のイメージが強いんですよね。
福家は今ひとつだったけど井川が見事に復活させてくれました。
エモやんも嬉しかったと思います。
当時、江本、真弓、若菜となかなか二枚目が揃っていたことを思い出します。
もう70歳を越えてしまいましたがまだまだ元気でいてほしいですね。

15湯舟敏郎

子連れルーキーとして入団し長年にわたり渋い活躍をした投手ですね。
いちばん弱い時代に入団して援護のない中で好投した思い出があります。
ただ、年に1回か2回、手も足も出ないようなピッチングをしました。
92年の優勝争いをした年も広島相手にノーヒットノーラン。
最後の正田の打球は一塁セーフだったとは思いますが、
審判もアシストしてくれたし正田自身も抗議しなかったですね。
 
真っ直ぐはそんなに速くはなかったけど、
コンビネーションが良いというか、
多彩な球種で打者を翻弄するタイプでしたね。
特に木戸との相性がとても良かったと思います。
 
誰の外れ1位だったかはもう覚えていませんが、
社会人らしいまとまりのある投手でしたね。
1年目からナイスピッチングをしていましたが、
5勝11敗だったかな。とにかく阪神は打てなかったので。
暗黒時代のエースといえば藪がいますが、
安定感でいうと湯舟のほうがずっとありました。
 
2ケタ勝利を挙げたのは2シーズンぐらいだったと記憶しています。
隔年で活躍するようなタイプだったのかもしれません。
のほほんとした顔つきでピンチでも薄ら笑い。
テレビをつけて笑顔の湯舟が映し出されると
「あ、阪神勝ってるのかな」なんてだまされるわけです。
スコアが出ると4点ぐらい取られてたりしてね。
「なんや、負けとるやないか」
そんなことが何度もありました。
元NHKのアナウンサーで定年後にサンテレビで実況をされていた
土門アナウンサーが湯舟を称して
「湯舟は殿様顔ですから」と言っていたのを覚えています。
あれは言い得て妙でしたね。笑いましたもん。
 
確かに昔風の二枚目でしたね。
整った顔立ちで、独身だったらもっと人気が出たと思います。
近鉄にトレードで移籍しましたが鳴かず飛ばずでしたね。
引退後はコーチをしましたが星野監督に指導法を疑問視されて解雇。
それからはテレビで解説をしています。
久しぶりに映像を見たけどやっぱり齢を取ったなあと思いました。
もっと強い時の阪神で投げさせてあげたかったですね。

2020年5月29日 (金)

25濱中治

あのケガがなかったら、あのプレイさえなかったら。
濱中についてはいつもそればかり考えてしまいます。
1年目から天才じゃないかと思うほどのバッティング。
けっこう早くに一軍登場してヒットを打ちましたね。
追い込まれて真っ直ぐ狙いでも変化球に対応できるし、
何よりもあの遠くへ飛ばせるパワー。
この選手が4番に座れば阪神は強くなるだろうなと思ったものです。
 
野村監督時代にスタメン起用されましたが、
なかなかプロ初ホームランは出ませんでした。
そうして迎えた甲子園球場の広島戦。
最終回にランナー2人だったかな。
広島の河野から弾丸ライナーのサヨナラホームラン。
この劇的な一発が濱中のプロ1号でした。
打たれた河野、若くして亡くなったんですよね。
ちょっとしんみりしてしまいます。
 
星野監督が就任すると田淵コーチの秘蔵っ子として
うねり打法を伝授されて4番を務めます。
2003年は開幕から4番に座り
5月初旬までは2冠王でしたね。
帰塁したときに肩を痛め、遠投したときに脱臼。
無理して日本シリーズに間に合わせたことが命取りとなりました。
2005年は20本打ったけど、そこからサッパリでしたね。
阪神の誤算は濱中と今岡が円熟を迎えることなくチームを去ったことでしょう。
この2人に林威助と桜井広大が揃ったらどんなに強いチームになったことか。
引退後は阪神でコーチを務めていますが、
何とかね、自分が果たせなかった夢を次の世代に託してほしいですよね。

8田尾安志

田尾が阪神へやってきたときは信じられない気持ちでした。
大阪育ちで阪神ファンだった田尾ですが、
ドラフト1位で中日に入りチームの顔となります。
85年から西武の一員となりますが、
選手会長としてチームに直言するのが嫌われて出されたようですね。
西武ではあまり真価を発揮することなく
87年からタイガースの一員となりました。
2番で起用されましたが中日時代の面影はありません。
打率も2割前半で守備範囲も狭くなりました。
 
村山監督が就任すると若手が器用されるようになります。
田尾は村山監督にも直言したようですが、
それでかなり煙たがられたようですね。
若手を使っても負けたら仕方ない。
そんなことを言ったら二軍へ落とされたようです。
二軍では格の違いを見せて一軍昇格し
代打ホームランを連発した時期があります。
甲子園で二死満塁から広島の津田から打った一発は見事でした。
自信を取り戻した田尾はスタメンを勝ち取り
規定打数に達して2割8分をマークしています。
 
それでも結局は若手起用の波に呑まれ現役を引退します。
ただ、一瞬だけど往年の安打製造機の姿を見せてくれたのは嬉しかったですね。
あのルックスですからテレビ局が放っておくわけもなく
プロ野球ニュースの解説者として活躍しました。
あれだけの成績を残した人だから打撃理論も確かだとは思いますが、
コーチで招かれることはなくできたばかりの楽天の監督に。
結果は火を見るよりも明らかで記録的な最下位でした。
ちょっと気の毒でしたけどね。
 
解説を聞いているとわかりやすいですけど、
例えば新外国人の考察なんかはちょっと甘めですかね。
ロブ・ディアーやウェイン・ロサリオなんかを絶賛していました。
広沢も開幕前にマートンを酷評してましたけど。
だから指導者としてはなかなか招かれないのかなとも思います。
天才肌で独特の理論がある人だと思うので。
小さい頃から好きな選手だったので
最後を阪神で終わってくれたのは嬉しかったですけどね。

29井川慶

21世紀に入っての猛虎復活を語る上で井川は欠かせません。
僕は高校野球も好きだったので井川のことは知っていました。
水戸のドクターKと呼ばれる凄いピッチャーがいる。
そんな噂は聞いていましたが映像は見たことがありませんでした。
甲子園には出ていないし3年のときは腰痛で投げていません。
生まれも育ちも茨城なのになぜか阪神以外はいかないと宣言していて
腰痛持ちということもあり阪神はドラフト2位で指名できました。
1位は的場だったのかな。
 
故障がある関係でじっくり育てる方針だったようです。
ただ高卒で背番号29は期待の表れですね。
野村監督時代に見出されて米子の広島戦で先発してプロ初勝利。
強風を味方に打線が爆発した試合でもありました。
そこで野村監督はすぐに二軍落ちを命じました。
こんなことでプロを甘く見たらアカン。
そんな気持ちだったのでしょうね。
それだけ期待も大きかったと思います。
 
翌年にはローテーションの軸となり9勝を挙げます。
味方打線の援護がなく負けは2ケタでしたが、
高めのストレートに威力があり三振の取れる投手でした。
星野監督1年目は開幕投手に抜擢されて巨人相手に完投勝利。
勝ちと負けが前年とは逆になり13勝を挙げます。
思えばこの2年間の井川がいちばん内容が良かったと思います。
そして2003年はなんと20勝。
負けも5つか6つだから投げれば勝つという状態。
ただ、前年より内容は良くなかったと思っています。
 
岡田監督時代もエースとして活躍しましたが14勝が最高でした。
防御率も悪くなったしメジャー挑戦を表明したりちょっと印象が下がってしまいます。
結局は井川の意思を尊重してヤンキース入りするわけですが、
その後はもうね。最大の不良債権とか言われてしまい、
マイナーでいくら好投してもメジャーに呼ばれることはありませんでした。
ちょっと変わり者だったこともあって野球一本に専念できなかったかもしれません。
オリックスに復帰して岡田監督の下で投げましたが、
もうそれは往年の井川ではありませんでした。
 
本人は退団後も引退宣言はせずトレーニングをしていましたが、
さすがにもう井川獲得を表明する球団もなく事実上引退となりました。
かつての女房役だった矢野監督と始球式でバッテリーを組んだとき、
優勝時のユニフォームを着て投げる井川を見て切なくなったことを思い出します。
嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情。
でもファンはあの雄姿を忘れるわけはなく大歓声で井川を迎えました。
それに向かって帽子を取って深々と頭を下げる井川を見て泣きそうになりましたね。
本当なら阪神でコーチをしてもらいたい気持ちはありますけど、
退団時のちょっとした騒動や性格もありますから難しいかもしれません。
ただ、いつまでも阪神のエースとしての誇りを胸にとどめていてほしいと思います。

8吉竹春樹

岡田監督から真弓監督の時代は
毎年のように優勝争いに絡む強い時代でした。
その傍らでコーチとして支えたのが吉竹でした。
ドラフト外で投手として入団し打者転向で花が咲きました。
背番号も53から8になりレギュラーを期待されましたが、
やや線が細かったですね。
細身の体系は今もそれほど変わりません。
 
出てきたときのことはあまり覚えていないんです。
僕は北村が好きだったし、優勝したときは弘田がいましたしね。
吉竹は守備固めとか右投手のときのスタメンという印象が強いです。
少なくとも阪神時代には規定打数には達していません。
春先に打撃好調で「今年の吉竹はいいな」と思わせて
毎年のように夏場に失速するという感じがありました。
肩はそれほどでもなかったですが守備は上手でした。
びっくりするようなプレーはないけど堅実で安心感がありました。
そういったところは後輩の桧山に似ているかもしれません。
 
いろいろ思い出してみますがあまり印象がないなぁ。
そうそう、遠藤と江川に割合相性が良かった記憶があります。
速球派に強かったんでしょうね。
中堅にさしかかり上がり目が少ないと判断されたのでしょうか、
87年シーズン開幕前に西武田尾とのトレードが決まりました。
吉竹は号泣したそうですが、トレードは宿命ですから仕方ありません。
救いは西武へ移籍してからレギュラーで活躍したことです。
阪神ファンの組織票でオールスターにも出場しています。
田尾が今ひとつだっただけにもったいないなあと思いましたが、
西武球場のフェンス際でグランドに足を取られて骨折してしまいます。
これはどう考えてもグランド側の不備で可哀そうでしたね。
かなりの重傷で長い期間を棒に振ってしまいました。
その間に若手も育ちレギュラー復帰はできませんでした。
余談ですがライバルの北村も後を追うように西武へ。
森監督が二人の守備力を高く評価していたようです。
 
引退後の足取りは自分はよくわからないのですが、
阪神にコーチとして復帰してからは長くユニフォームを着ています。
岡田監督の辞任に伴い一度は現場を退きましたがすぐに復帰。
真弓監督の解任で一緒に辞めたのかな?
その後は独立リーグだったかの指導者になったと思います。
そして資格を取得して母校の監督に就任しました。
永遠の若虎吉竹の今後の人生に期待しています。

36田村勤

暗黒時代はかくも長き不在でした。
長い低迷期の中でほんの一瞬だけ輝きを放ったのが92年。
亀山・新庄ブームの年でしたね。
実はですね、あの年の躍進を僕は前年に予言していたのです。
91年は最下位でしたが、投手陣はとても良かったんです。
9月ぐらいだったか、仲田、葛西、猪俣、湯舟、野田の5人が連続完投勝利。
5試合連続の完投ですよ。当時でもなかなかない記録です。
先発に力のある投手が揃っているのが感じられました。
そこへこの年の新人田村がリリーフとして加わります。
甲子園の中日戦で無死満塁で登板して三者三振。
独特のフォームとスピードのある真っ直ぐで打者を寄せつけません。
これで抑えができました。あとは中軸打者です。
助っ人のオマリーともう一人誰かいたらと思っていたところへ、
大洋を解雇されたパチョレックを獲得。
これでおぼろげな予想は確信へと変わりました。
「来年Aクラス入りしなかったら坊主になりますよ」
会社の公式行事での懇親会で同僚を前に自分はそう言いました。
「乗った!じゃAクラス入りしたら1万円やる!」
周りの連中は口々にそう言ったものですよ。
 
シーズンが始まると敵地神宮で1勝1敗。
それも終盤に追いつき代打攻勢で逆転勝ちという粘りの試合。
そして東京ドームで巨人と3連戦。
この中の1試合は生で見ています。
序盤に斎藤雅樹にホームランを打たれて4点ビハインド。
相手はエース斎藤ですから負けたと思いましたが、
ルーキー久慈の三塁打、パチョレックの走者一掃タイムリー、
そして亀山のヘッドスライディングとこの年の役者が大活躍。
中込が粘り強い投球で頑張り抜き最終回の無死満塁を田村がしのぎました。
 
それから阪神は快進撃を続けるわけですが、
抑えの田村につなげば勝てるというのが大きかったです。
弓長、御子柴、嶋尾らの中継ぎも良かったですしね。
たしかみんな防御率1点台じゃなかったかな。
「あいつがやれるならオレも」そんなムードでした。
ほとんど打たれない感じはJFKのウィリアムスみたいだったかな。
ただちょっと無理をさせすぎたかもしれません。
7月に田村に異変が起きます。
楽勝ムードだったヤクルト戦、あれ地方のゲームだったと思います。
代打八重樫にホームランを打たれるなど乱調。
ヒジに異変が発生し戦列を離れてしまいました。
そこからは阪神は徐々に失速し僅差でヤクルトに優勝を奪われます。
このときはさすがに自分も泣きましたね。
ただ、よく頑張ってくれたという気持ちも大きかったです。
 
もう復帰は難しいかと思われた田村ですが、
その後はまた快刀乱麻のピッチングを見せました。
ただ1シーズン通しての活躍はやはり無理でした。
松井キラーとして名を馳せたときもありましたが、
それも遠山に譲りました。
オリックスへ移籍してからはもう年齢的な衰えもあり
ユニフォームを脱いで勉強を重ねて整体師として活躍しています。
口下手な人でしたがトークショーとかやってほしいですね。
92年のメンバー、けっこう好きなんですよ。

2020年5月28日 (木)

3八木裕

阪神には代打の神様と呼ばれた人が何人かいます。
古くは川藤がいますね。
90年代には真弓がまさにそうでした。
真弓が引退したあとの神様を襲名したのが八木です。
 
ちょうど暗黒時代の入口に入団した八木は
引退した掛布に代わるスター候補として英才教育を受けました。
ルーキーの八木がプロ初ホームランを打ったのが後楽園球場。
相手投手はエースの江川です。
あの試合は生で観戦していましたけど大きなホームランでした。
試合は池田が早々にノックアウトされて一方的でしたが、
次の時代を担う若虎の一発で少し溜飲が下がりました。
 
少し伸び悩んだけどまずまず大砲として順調に育ったとは思います。
特に外野へ回ってからは守備の負担が軽減したのか生き生きしていましたね。
俊足強肩の良い外野手だったですよ。
あの落合がタイトル争いのライバルはと聞かれたときに八木を挙げていました。
意外な名前が出たなと思いましたが
「あの若さと勢いが怖いかな」と言っていましたね。
92年には不動の5番打者として30本近いホームランを放ちます。
亀山、新庄と並ぶ鉄壁の外野陣も形成していました。
そして何と言ってもあの幻のホームランですね。
あれがホームランだったらと今も悔しさが甦ります。
大きな故障はなかったと思いますがなぜかレギュラーを外れて、
一時は戦力外候補となってしまいました。
三たびタイガースの監督に復帰した吉田監督がそれを止めて、
八木は代打の神様として復活します。
吉田時代から野村時代、そして星野時代と八木の活躍は見事でした。
シーズン途中まで代打成功率5割超という驚異的な年もありました。
星野監督の1年目だったか、横浜の横山から甲子園で代打逆転満塁ホームラン。
それも初球を狙っての一発です。
どれだけ集中力があるんだろう、どんな準備をしたらあんなに打てるんだろうと思いました。
 
優勝した2003年は地元岡山でのスタメン抜擢に猛打賞で応えていました。
同郷の星野監督の粋な計らいでしたよね。
翌年に引退しましたが引退試合はかじりついて見ていました。
デビュー戦から見ていた選手だけに感慨もひとしおでしたね。
その後も打撃コーチを務めていましたが今は解説者として活躍しています。
なんだか、ずいぶんと時代が過ぎてしまったんだなぁと思います。

6金本知憲

平成のプロ野球で最強の打者は誰かと聞かれたら、
僕は迷わず金本の名前を挙げます。
イチロー、松井、そして今なら大谷もいますが、
あの不屈の闘志とたゆまぬ努力で打ち立てた金字塔は
今も燦然と輝いているのではないでしょうか。
広島カープ時代は殺されるような猛練習を課せられたそうです。
確かにひょろっとしてましたよね。
それがいつのまにか筋骨隆々となり試合に出続けながら技術も高めました。
あの左腕で押し込むようなバッティングは迫力がありましたね。
 
ビッグレッドマシンでしたっけ?
カープの迫力ある打線は恐怖でしたけど、
投手が今ひとつで優勝はできませんでしたね。
緒方が大ケガをして前田もアキレス腱を断裂し、
江藤も眼窩骨折がありFAで巨人へ移籍してしまい、
金本が孤軍奮闘していた時期を覚えています。
トリプルスリーを達成するなど
パワーとスピードとスタミナを兼ね備えた選手になりました。
血反吐を吐くような猛練習だったそうですが、
三村監督が亡くなられたときに弔辞を述べた金本の涙は胸に迫りました。
 
あのままミスター赤ヘルとなるのかなと思いましたが、
FAで星野監督に「半ば脅されて」阪神へ移籍します。
僕は金本は動かないと思っていたので意外でした。
阪神1年目は3番を任されて赤星と濱中との繋ぎに徹していましたね。
元来プルヒッターと思っていましたが、
塁上の今岡を進めたり赤星が良いスタートを切れるまで待ったり、
打てるボールも見送り濱中に回したりと
あんなに自己犠牲ができる選手だとは思っていませんでした。
むしろあの年の金本は底知れぬ迫力を感じましたね。
 
濱中が手負いとなり桧山や片岡もやや調子を落としていた日本シリーズは
完全に4番のようなバッティングを見せてくれました。
サヨナラを含む4ホームランは見事。あの低い弾道はかっこよかったなあ。
翌年からは岡田監督に4番を任されて迫力あるバッティングを見せてくれました。
30代後半で40本塁打とかすごいですよね。
何よりも1試合も休むことなく真の4番としての打撃を見せてくれたのが凄い。
 
金本のおかげで阪神は2度も優勝を成し遂げ、
10年ぐらいの間は常勝チームとしてセリーグを盛り上げました。
返す返すも残念なのはあの肩板断裂です。
あれがなければどこまで記録を伸ばしたのだろうと思います。
連続試合出場が途絶えたときのホッとした表情は今も忘れられません。
岩瀬でしたかね、左指に死球を受けて骨折して
片手だけでヒットを打った姿は涙が出そうになりました。
木佐貫に頭にぶつけられたときも相手を思いやり、
ホームランでお返ししたこともありましたね。
 
監督に就任したときは若手を鍛え上げようと頑張りましたが、
やはり時代の移り変わりか、金本自身のような猛練習は今の選手には無理でした。
それでも中谷や陽川を鍛え、開幕戦から高山と横田を抜擢して
今までの阪神とは違う風を吹かせてくれたと思っています。
辞め方はとても残念でしたし金本もまだまだやり足りないと思いますが、
いつかまた阪神に戻ってほしいと思いますし、
新井と一緒にカープの指導者になってくれても嬉しいですね。
広島のファンも金本のことは今も好きなようですから、
きっと温かく迎えてくれることと思います。

6和田豊

85年の優勝メンバーにもルーキーで名を連ねた名選手です。
我孫子高で甲子園に出場したときを覚えていました。
まさかあそこまでの一流選手になるとは想像しませんでしたが。
その素材の良さを垣間見る予兆はありました。
岡田が軽いケガをしたときに代役で出場して4安打の固め打ち。
あとを打つ平田が全部見事に送りバントを決めて
1試合最多犠打の日本タイ記録をマーク。
「おまえは先輩にぜんぶ送らせるのか」は平田の談。
優勝するときはすべてがうまくいくんですね。
 
それからしばらく伸び悩みスイッチに挑戦したりもしました。
村山監督のときに中野と大野と少年隊と呼ばれて起用されましたが、
唯一長くレギュラーを張ったのは和田だけでしたね。
大卒ということもありますが、
あの回り道がなければ2千本も夢ではなかったと思います。
レギュラーを取ってからは不動の1番打者としてチームを牽引しました。
暗黒と呼ばれた時代で唯一光明を与えてくれるプレーヤーで
野村監督が就任したときも「レギュラーと呼べるのは和田だけや」と言いました。
足首の故障を抱えたために足を使う場面は減りましたが、
芸術的なライト打ちと小技は職人芸と呼べるものでした。
 
現役のうちにもう一度優勝させてあげたい選手でしたが、
あの引退試合の素晴らしいスピーチが今も心に残ります。
引退後は打撃コーチとしてなくてはならない存在となっています。
特に狙い球を絞る技術に長けており
和田が打撃コーチの阪神は打線がよく繋がった印象がありますね。
真弓監督退任後はなんと一軍監督に就任。
まさか和田が監督になるとは想像できなかったですね。
優勝はできなかったですがプレーオフを制して日本シリーズに出場。
西岡と福留が少し期待外れだったときで可哀そうな面もありましたが、
マートン、ゴメスの打線はなかなか迫力がありました。
ただ選手の操縦は星野さんや岡田さんほどではなかったかも。
マートンとはややコミュニケーション不足でしたし、
メッセンジャーもちょっとチームに不満を持っていた頃でもありました。
新井の戦力外騒動なんかもあってちょっと寂しい辞め方でしたね。
今は球団付きのアドバイザーみたいな立場でチームを支えています。
自分としてはもう一度打撃コーチをしてほしいですが、
一度監督をやってしまいましたから難しいかもしれません。
90年代からの阪神でミスターと呼べるのは地味だけど和田じゃないかなと思います。

2020年5月27日 (水)

27嶋田宗彦

箕島高校と星稜高校の延長18回の死闘は今も語り草になっています。
そのとき自分は小学校の5年生です。もうテレビにかじりついて見てました。
調べてみると浪商の牛島と香川のバッテリーがいて、
松商学園の川村がいて、前橋工業の小川がいた大会です。
前橋工は小川、番場、あとごめんなさい。名前が出てこないけど3本柱でしたね。
 
僕は愛知出身なので中京や享栄が好きでした。
小さい頃に東邦高校が準優勝したのもよく覚えています。
まだ名古屋電気だったころの愛工大名電も強豪でしたね。
あとなぜか高知商と箕島高校が好きでした。
やっぱり県立高校って応援したくなるじゃないですか。
特にこの年の春夏連覇と劇的な試合ぶりで箕島ファンになりました。
 
1点負けていた場面で尾藤監督に
「ホームラン打ってきます」といって打席に向かい
本当にホームランを打ってきたのが嶋田宗彦でした。
気の強そうな顔、今もよく覚えています。
かなり小柄だったのでプロはどうかなあと思いましたが、
バッテリーを組んだ石井毅と一緒に住金和歌山へ進み
ロサンゼルスオリンピックの金メダルを引っ提げて阪神入り。
相棒の石井も西武ライオンズへ入団しましたね。
この年、嶋田はドラフト4位でした。
1位は弟で箕島高校のエースだった嶋田章弘です。
これで兄貴が少しむくれたんですよね。
でも結局は兄弟揃って入団して1年目から兄弟バッテリーが実現しました。
親御さんは本当に嬉しかったと思いますし尾藤監督も喜んだでしょう。
弟はあわやノーヒットノーランというピッチングを見せましたが、
故障もあって投手としては大成しませんでした。
兄貴はけっこうバッティングも良くて
日本シリーズでは代打で出て初打席ホームランの離れ業。
相手が箕島の大先輩東尾投手でしたね。
 
翌年は木戸から半ばレギュラーを奪い活躍します。
あの小さな体でホームランも7本ぐらい打ったはず。
特に巨人の桑田にやたらと強くてスカッとしましたね。
肩もそこそこ良くて良いキャッチャーになると思いましたが、
あの小さな体ですから相当に無理がかかっていたと思います。
だんだんと出場機会は減り山田の台頭もあってひっそりと引退しました。
その後もコーチやスコアラーとして阪神に残りましたが、
たまにテレビで顔を見かけるとすごく嬉しくなります。
もう40年以上も昔の死闘ですけど
あの試合をリアルタイムで見られたのは本当に幸せなことでした。

48仲田幸司

暗黒時代でも期待した若手はたくさんいましたが、
亀山も中込も高井も中野も大野も一瞬でしたね。
レギュラーになったのは和田と新庄と桧山ぐらいかな。
その中でずっと期待しては裏切られ、
見放したら活躍しての繰り返しだったのが仲田幸司です。
オールドファンにも人気のあるマイク仲田ですね。
優勝した85年には神宮で完封勝利を挙げて飛躍を期待されましたが、
3勝ぐらいしかできなかったと思います。
翌年、横浜スタジアムで観戦したときに大洋を無四球で完封しました。
真っ直ぐは速いしあの大きなカーブとのコンビネーション。
昔、一流のサウスポーはこの2種類だけでメシが食えた時代です。
沖縄の興南高校時代から有名なピッチャーでした。
ハーフの顔立ちからこれは人気出るよなあと思ってみていました。
 
チャンスはずいぶんもらっていましたがなかなか・・・。
覚えているのが猪俣が四球連発で初回に降板し急遽リリーフ。
桑田と延長まで投げ合いウィンの3ランで勝ち投手。
この試合の仲田は素晴らしかったです。
この翌年だったかな、スライダーを覚えて14勝して阪神を優勝争いに導きました。
やっとマイクがエースになったかと喜んだものでしたねぇ。
でも翌年は全然ダメでいつものマイクに戻りました。
FA宣言したときに球団からひどいことを言われてロッテへ移籍。
ここでもまったく戦力になりませんでした。
クビになって阪神の入団テストを受けましたが、
実際に仲田は受ける前から内定をもらっていたそうなんです。
でも一緒にテストを受けたのがかつての同僚でともにロッテを解雇された遠山。
打者として受けにきた遠山に対して吉田監督は投げてみろと言いました。
意外といい球がいったようで急遽遠山がテスト合格しマイクは不合格。
泣いてましたね、仲田。
性格的に優しすぎるのと欲がなかったと思います。
純粋な沖縄の好青年という感じでしたが、そんな仲田が好きだったですけどね。
あれだけコントロールが悪かったのでコーチとして呼ばれることもないまま今に至ります。
背番号34の年に大ブレイクしましたが、自分の中でのマイクはやっぱり48です。

30平田勝男

土のグラウンド甲子園球場を本拠地とするタイガース、
歴代のショートを振り返れば名手が揃っています。
何と言っても牛若丸と呼ばれた吉田義男が有名ですね。
ただ残念ながら自分は生まれていません。
野球を見始めた頃のタイガースのショートは藤田平でした。
どちらかと言えば打撃職人ですしファーストのイメージが強いですね。
はっきりと覚えているのは真弓からです。
その真弓が首位打者を取った頃に平田は入団しました。
長崎海星から明治大学へというエリートです。
まだ島岡御大が指導していた頃ですから相当しごかれたようです。
当初平田は阪神入りを渋っていたそうですね。
掛布、真弓、岡田、藤田といたら出るところがないですからね。
 
紆余曲折ありながら阪神にドラフト2位で入団した平田ですが、
いつの間にやらレギュラーを獲得していました。
真弓が膝を悪くしたことや岡田の故障が影響していたかと思います。
とにかく打てなかったけどバントだけは本当に上手でした。
守備も堅実でしたがけっこう腰高だった印象があるし肩も強くはなかったです。
でも平田のところへ飛ぶと安心感はありましたね。
特に岡田との二遊間はプロ野球の歴史でも上位だと思います。
中日のアライバに匹敵するんじゃないかなあと。
85年の春先から好調で首位打者になったときがありました。
そのあとはいつもの平田に戻りましたがホームラン7本打ってるんですよね。
 
翌年は肩を故障して少しずつ出場機会が減りました。
選手寿命がすごく短かったのは残念でした。
平田もまだ中堅だったけど村山監督の若手起用で
打撃の良い和田にレギュラーを奪われてしまいます。
この頃、北村から大野、佐野から中野、木戸から嶋田兄、
こんな感じで若返りが図られます。
掛布、バースは退団し真弓と岡田も満身創痍となり
チームは暗黒時代へ入っていきました。
木戸や平田がもう少し長く頑張ったら歴史も変わったんじゃないかな。
 
引退後も阪神一筋で頑張ってますね。
二軍監督やヘッドコーチを歴任し星野監督の広報も務めました。
明治の先輩後輩でしたねぇ。
コーチ時代にいちばん感動したのは2005年のナゴヤドームです。
中日有利な判定が繰り返されて岡田監督が激怒して抗議したときに
審判との間に割って入って岡田監督の退場を防いだのが平田でした。
岡田が激しく当たったので主審の手が少し上がりかけたタイミングで
平田がえらい剣幕で突っかかり退場を防いだ感じがします。
あそこで監督が退場していたらあの劇的な勝利はなかったでしょう。
久保田の鬼気迫る投球と中村豊一世一代のホームラン。
結局あれで優勝できましたもんね。
今も鳴尾浜で二軍監督として若手を鍛えています。
一軍監督やるのかな。やらないだろうな。

2020年5月26日 (火)

19小林繁

江川事件は小学生のときでした。
子ども心に義憤に駆られました。
巨人はなんて汚いやり方をするんだろうと。
一度阪神に入団した江川がトレードで巨人へ移籍。
小学生にはわけがわかりませんね。とんでもない大人の事情ってやつです。
人身御供のように阪神へ来たのが小林繁でした。
スラリとした体つきとモデルのような風貌。
かっこよかったですね。阪神にはいないタイプ。
いや江本もかっこよかったけど。
巨人時代の背番号19をつけることが決まりました。
その陰で背番号をはく奪された工藤が奮起して一軍の主力へ成長します。
ある意味このトレードの副産物でしたね。
 
1年目はもうすごかったです。
阿修羅ってあんな感じなのかなと。
対巨人無傷の8連勝で22勝の最多勝。
みんなマネしましたよね。懐かしいです。
掛布も48本でホームラン王を取りました。
真弓もいて若菜もいてスターが揃いましたね。
でもチームは4位ってどないやねん。
 
あの年ですべてを使い果たしたわけではないですが、
翌年以降は勝ち負けが同じぐらいになりました。
昭和58年に11勝を挙げながら引退したときはさすがに驚きましたが。
「小林繁のピッチングができなくなった」
そんなセリフとともにマウンドを去ったと記憶しています。
2ケタ勝ったエースが突然引退してチームはてんやわんや。
翌年の開幕投手はかなり混迷を極めたのを覚えています。
 
その後はTBSのキャスターとして活躍しました。
私生活はいろいろあったようですが、
梨田監督に招かれて真弓とともに近鉄のコーチに就任しチームは優勝。
イケメン首脳陣と話題になりましたね。
何かの企画で江川と対談したりCMで共演したのも見ました。
いろんな苦労を背負ってきたんだなあとしみじみしました。
それが小林繁の美学だったのかもしれません。
ただ背負うものが大きすぎたのかな。
あんな若さで亡くなるなんて今も信じられません。

25山本和行

僕が野球を見て以来のタイガースは
先発は絶対的なエースって少なかったと思います。
小林繁が引退したあとはもう井川までそういう投手は出ませんでした。
外国人のキーオぐらいですかね。
そのかわりリリーフはけっこういいピッチャーが出ました。
最近だとJFK、90年代のはじめには田村がいましたね。
 
優勝したときは中西と山本のダブルストッパーがいました。
山本和は大好きなピッチャーでしたね。
あのポーカーフェイスと鋭いフォーク、
そして絶妙のコントロールが武器でした。
真っ直ぐは140キロ台でしたけど速く感じました。
牽制とフィールディングも上手だしバッティングも良かったです。
 
ドラフト1位で入団したときはわかりませんが、
僕が野球好きになった頃はもう抑えで投げていました。
チームのゴタゴタもどこ吹く風で常にマイペース。
84年だったか大リーグ挑戦を表明してチームを慌てさせました。
85年の優勝も大きく貢献しましたが、
9月はじめにアキレス腱を断裂して戦列を離れました。
阪神一筋で投げてきたのに優勝のマウンドにいられなかったのは残念です。
山本が離脱してからの中西のピッチングは鬼気迫るものがありました。
優勝を決めた試合の祝勝会には私服で参加して中西と抱き合っていたのが印象的です。
日本一を決めた西武戦はユニフォームを着て歓喜の輪に参加していました。
たしか胴上げもされたんじゃなかったかな。
 
そこで終わらないのが山本の凄さです。
当時でもう36歳ぐらいだったので復活は難しいと言われていましたが、
いつものように飄々と「来年の開幕には間に合わせますよ」と言っていました。
そして翌年は見事に復活。当初は負担を考えて先発をしていましたが、
中西が前年の疲労でやや精彩を欠いたため抑えに回りカムバック賞を受賞。
そのオフも若手主体のリーグ戦に参加するためアメリカへ渡りました。
そのときに流行ったスプリットフィンガードファストボールを取得するためと言っていました。
フォークを武器にする山本がSFFをマスターするなんてどこまで貪欲なんだろうと。
年齢的な衰えもあり活躍はできず引退することになりましたが100勝挙げていますしね。
いつまでも記憶に残るピッチャーだったと思います。
 
残念なことは指導者として阪神に復帰しなかったことですね。
NHKで大リーグ中継の解説をされていましたが、
現場に復帰したのはタイガースではなく広島カープのコーチとしてでした。
あまり阪神に愛着がなかったのかなとも思います。クールな人ですからね。
V戦士の集まりなどにも参加していませんし、
阪神戦の中継なんかもあまりしませんしね。
そこがまた山本らしくてかっこいいなと思います。
特に思いれがあるのがけっこう僕と顔が似ているんですよね。
甲子園へいったときにずいぶん年配のオールドファンから
「山本和に似てるねぇ」といきなり話しかけられました。
全然知らないおじさんに阪神電車の中でね。
そんなこともあってなんか親しみがある選手でした。

2020年5月24日 (日)

31掛布雅之

僕の世代はミスタータイガースと言ったら掛布です。
タテジマがいちばん似合った選手だったと思います。
村山さんの現役は覚えていないし田淵もほんの少しだけしか覚えていません。
掛布のあともミスターと呼ばれる選手は30年以上を経ても現れませんでした。
 
若虎時代の掛布は本当にかっこよかったです。
バッティングもそうですが守備も良かったですね。
甲子園の土のグランドがあれだけ似合う選手、他にいましたか?
テスト入団、ドラフト6位から這い上がり長く4番サードとして頑張ってくれました。
優勝したときもバースの後ろに掛布がいたからこそだったと思いますね。
バースの陰に隠れてあまり目立ちませんでしたけど、
日本シリーズは前半はバースが打ちまくりましたが、
甲子園で連敗して少し雲行きが怪しくなりました。
その覆いかぶさる雲を吹き飛ばしたのが第5戦の初回に出た掛布の3ランでした。
そして所沢での第6戦、最後の最後の大トリを飾ったのも掛布でした。
 
あの優勝は何だったんだろうと思えるほど翌年はみんなが成績を落としました。
バース以外は真弓も岡田も木戸もみんなガタっときましたね。
何よりも掛布が4月にデッドボールで骨折して一気にチームは失速してしまいます。
それまで2試合連続でホームランを放ち調子を上げていただけに痛恨でした。
でもあれが引退への引き金になるとは想像もしなかったです。
復帰してからも打球処理でケガをしたり3回ぐらい下に落ちたと思います。
その翌年はもう往年の掛布ではありませんでした。
そして村山監督のときにシーズン中に引退を発表します。
最後の試合は甲子園でしたがスピーチもなかったと記憶しています。
掛布本人は嫌がったそうですが場内一周をして花束を受け取るぐらいでした。
ただ、スタンドに張り出された「掛布選手、夢をありがとう」という横断幕を見て、
「ああ、俺はこの人たちに育ててもらったんだ」と最後に気づかされたそうです。
「それまでマスコミやファンに対して背を向けた自分がいた」
「僕はこんなに素晴らしい環境の中で野球をさせてもらっていたんだ」
そんなことを引退してから語っていたと記憶しています。
 
いろいろあって阪神にはもう復帰しないと思っていましたが、
金本監督時代に二軍監督として復帰しました。背番号31が帰ってきたのです。
たった2年間でしたが僕ら世代は嬉しかったです。
ただ、阪神らしいというか中途半端なかたちでまたユニフォームを脱いでしまった。
もうユニフォームに袖を通すことはないでしょうね。
監督をしてほしかったと思うけど、叩かれる掛布を見たくはないのでそれでいいのかな。
それと掛布もそうですがバースと岡田の3人にはぜひ殿堂入りしてほしいですよね。
岡田なんかは監督でも実績を残していますしね。
本人たちが元気なうちに受賞してもらい3人そろった姿をまだまだ見たいですね。

44ランディ・バース

僕も長いこと野球を見ています。かれこれもう45年以上ですかね。
その中で歴代最強の助っ人は誰かと聞かれたらためらいなくバースを挙げます。
もちろん活躍した年数といったファクターはありますよね。
アレックス・ラミレスやタフィ・ローズのほうが活躍した年数は長いでしょうし、
ブーマー・ウェルズやリー兄弟のほうが日本で残した実績は高いかもしれません。
ただ、あの当時に球場で味わった興奮や歓喜はバースが最高だったと思います。
3連戦を見に行きますよね。
僕で言えば後楽園、神宮、横浜の試合ですが、
とにかく3試合で3本、4本は平気で打つんです。
当時のヤクルトと大洋はBクラスでピッチャーもよくなかったですが、
主力は尾花や梶間、遠藤や斎藤明と好投手がいました。
巨人なんかは江川、西本、槇原そろい踏みの時代です。
江川にはやや弱かったと記憶していますが86年の7試合連続ホームランは
江川から場外へ消えるような大ホームランでした。打球を見失いましたもん。
 
2年連続三冠王で日本最高打率をマークし、
85年にはチームを21年ぶりの優勝に導き日本シリーズでも3ホーマー。
ちょっと手がつけられないバッターでしたね。
NHKで放送していた広島戦で川上さんと鶴岡さんが解説をされていて
特に川上さんが本当に嬉しそうにバースの打撃を解説していたことを思い出します。
動画のコメントなんかを見ていると「当時はラッキーゾーンがあったから」なんて
見てきたようなコメントを出している人がいますが、
実際に球場で見たりテレビ観戦していた自分らからしたら「冗談じゃない」です。
ほとんどがスタンドに運ぶホームランだったし、甲子園の中断まで飛ばしていました。
 
活躍した年数は83年から87年で88年はあの忌まわしい事件とともに球界を去るわけですが、
ちょっと考えられないような活躍だった思います。
バースがいてくれた歳月はまるで夢のような時間でした。
本当のことを言うとバースに打撃コーチをしてほしいとずっと思っていましたが、
さすがにもうそれは叶わぬ夢ですね。
それでも毎年のように来日してはモルツのドリームチームで打棒を披露したり、
槇原相手に掛布と岡田と一緒に当時を振り返る企画に参加してくれたり、
85年の優勝メンバーが集まる催しには積極的に参加してくれています。
 
今も時々あの時代を思い出したりしますが、本当に遠い昔になってしまいましたね。
一発かっ飛ばせバース ライトへレフトへホームラン♬
あのメロディを聞くとやっぱり気持ちが高揚してきます。
はい、何と言っても僕の中では最強のバッターです。

2020年5月23日 (土)

19中西清起

僕が小学校6年生の時、春のセンバツは球道君ブームでした。
高知商のエース中西は高校生離れしたピッチングで優勝投手となっています。
当時の高校野球はスピードガンなんてありませんから
肉眼で見て速いなぁと思ったのは星稜の小松辰雄ぐらいですかね。
卒業後はリッカーに就職した中西ですが社会人でも活躍し
昭和58年度のドラフト1位で阪神へ入団します。
ふてぶてしいちおうか新人離れした雰囲気がありましたが、
ケガのために1年目はほとんど鳴かず飛ばずだったと思います。
同期の池田に大きく水をあけられた中西ですが2年目に躍進します。
 
首脳陣が一新されて米田哲也さんが投手コーチになったのが良かったかもしれません。
あの人はOB臭が薄く選手の好きにやらせてくれそうな感じですね。
抑えに抜擢された中西は連日連夜の大活躍で一気に知名度を上げました。
あの緩いボールとカーブでよく抑えが務まったなあと思いましたが、
抜群の制球力と2年目と思えないようなマウンドさばき。
中西が出てくればもう安心というムードがありました。
阪神は先発が弱かったので福間がロングリリーフをして山本和と中西へ繋ぐ。
それがチームの必勝パターンとして確立されました。
ずっと後に阪神はJFKでリーグ制覇をしましたが、
そのときの投手コーチが中西だったですね。
 
選手としてのピークは短かったですが、
開幕投手に抜擢されて完封したり2ケタ勝利をあげたりもしました。
だけど本当に輝いたのは85年だけだったかもしれないですね。
投手コーチとしての腕前は一級品だったと思います。
掲示板なんかではいろいろ叩かれていましたが、
JFKを確立させたし江草、橋本、桟原を一人前に育てたし、
藤浪も入団してから中西の指導で3年連続2ケタ勝利をあげています。
首脳陣も世代交代があるので岡田や木戸や中西が
ユニフォームを着るのはもう難しいかもしれません。
いいコーチだったのにもったいないなあと思います。


7真弓明信

お待たせしました。真弓の登場です。
自分がいちばん好きな野球選手は真弓です。
とにかくかっこいいじゃないですか。
風貌もそうだけど、どこを守っても上手だし
実際に3つのポジションでゴールデングラブ取ってますよね。
トップバッターでホームランを連発して首位打者も獲得。
膝を故障する前は足も速かったですしね。
そして何よりあの背番号7が本当にかっこよかった。
 
クラウンライターライオンズでレギュラーを取った真弓ですが、
そのシーズンオフに田淵との複数トレードで阪神へ。
田淵と古沢を放出した阪神は他に竹之内、若菜、竹田を獲得します。
投手の竹田以外は全員がレギュラーで活躍したので阪神は得しましたね。
ただ真弓の大化けは想像できなかったと思います。
あの小さな体で30本塁打って想像つかないですよね。
 
おなじみのミッキーマウスマーチで打席に入ると
外野スタンドは熱狂の渦でした。
首位打者、30本塁打、日本シリーズでの大活躍。
今も目を閉じるとあの頃の喧騒が甦るほどです。
優勝したシーズンは開幕からホームランを連発しました。
本人は苦手だったスライダー克服のヒントを得て
ミスター赤ヘルの山本浩二に
「僕、ホームラン王狙いますヨ」と言っていたそうですね。
6月にかつての同僚若菜のブロックで肋骨を骨折して戦列を離れました。
1ヶ月近く休んでいたと思いますがが終わってみたら34本塁打。
バースの54本には追いつかないと思いますが、
岡田とは1本差、掛布とも6本差です。まさに驚異の1番打者。
この年以降は緩やかな衰えの曲線を描きましたが、
代打に回ってからはものすごい集中力を発揮して代打の神様と呼ばれました。
川藤とは違い本当に登場を期待して待っていました。
95年ぐらいだったかな、代打で30打点を記録しています。
この記録、今も破られていません。
阪神大震災で自主トレもままならぬ中で最後のシーズンを終えましたが、
甲子園の引退試合は生で観戦しました。もう泣きじゃくりました。
 
退団後は梨田監督のもとで打撃コーチとして近鉄の優勝に貢献します。
阪神復帰はなんと監督としてでした。
驚異的な打線を引っ提げた2010年の強さは今も語り草です。
ただ惜しいところで優勝はできませんでしたが。
阪神はなんで真弓を打撃コーチとして招聘しなかったのか、
今も不思議でならないし残念でなりません。
監督を退いた後は時々解説をされていますが、
今はどうも野球界とは少し距離を置いていますね。
好きなゴルフを思う存分楽しんでほしいです。

2柏原純一

実は小学校の頃に少年ファイターズ会に入っていました。
年会費3千円で帽子やバッグがもらえて全試合の観戦が無料。
当時の本拠地だった後楽園球場は自転車で行ける距離だったので
迷うことなく入会してよく観戦したものです。
ちょうど木田勇投手が新人王を獲得した頃ですね。
ものすごいピッチャーでした。平成の野茂みたいな感じかな。
その頃の4番が柏原です。勝負強い打撃のスラッガーでした。
日本ハムが日本シリーズで巨人と戦ったあたりから柏原もやや衰えを見せます。
85年に阪神は日本一に輝いてバラ色のオフになりましたが、
補強は日本ハムを戦力外となった柏原の獲得ぐらいでした。
思えばこれが阪神の強さが続かなかった理由かもしれません。
西武や今のソフトバンクならもっと貪欲に補強をしたでしょう。
優勝はしたけど福間、弘田、佐野あたりは衰えかけていました。
それに代わる選手がなかなか自軍にはいませんでした。
そこへ30代半ばの柏原を獲得したのですから。
 
翌年、自分の予想に反して柏原は打ちまくりました。
当初は佐野の控えでしたが、この年は掛布が死球禍で戦列を離れ
その後も故障を繰り返し4番サードがぽっかり空きました。
4番は岡田が打ちましたがサードは当初真弓が守りました。
掛布が再度戦列を離れたときに柏原が志願してサードを守り
岡田の後ろを打ち3割をマーク、本塁打も20本近い本数を打っています。
柏原が打席に立つと応援歌ではなく日本ハム時代のコール、
「ジューンイチ!ジューンイチ!」というお囃子みたいなやつですね。
これがえらく盛り上がり楽しかったことを覚えています。
もう34年前なんですね。遠くなってしまったな。
見事に復活した柏原ですがカムバック賞はもらえなかったんじゃないかな。
当時は年俸公開もプロ野球ニュースで放送していましたが、
あれだけの好成績を残しながら年俸はたしか3%アップ。
「ほとんど現状維持です」とうつろな目で報道陣の質問に答えていました。
 
それでやる気を失ったのかもしれません。
翌年以降はさっぱり打てなくなり守りも精彩を欠きました。
ルーキー野田の勝利がかかった試合でエラーを繰り返して
「柏原引っ込め!」とヤジられていたことを思い出します。
引退後はいろんなチームで打撃コーチをしました。
阪神では何と言っても新庄の師匠でしたね。
恩師の野村監督に再び阪神に呼ばれてコーチを務めましたが、
新庄ばかりにしか教えないという不評もあり解雇されました。
阪神ではたった一年の活躍でしたがあの雄姿は忘れられません。

2020年5月21日 (木)

12福間納

最近は投手の球数制限とか登板間隔がいろいろ議論されています。
中継ぎ投手もそれは同じで回またぎはさせないとか、
連投は避けるといった風潮がありますね。
昭和40年代までの阪神は投手王国で先発完投が当たり前でしたが、
昭和50年代からは絶対的なエースが小林繁ぐらいしかいなくなり
早い回からリリーフを継ぎ込んで勝利を得るという野球が増えました。
僕の少年時代も安仁屋と山本和が後ろを任されていましたし
昭和60年の優勝時も中西と山本和のダブルストッパーがおり、
いちばん最近の優勝時はJFKという野球史上最強の3人が君臨しました。
久保田もずいぶんと投げましたが60年の優勝で活躍した福間は
中継ぎにして規定投球回数をクリアして見事に最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
 
ロッテのドラフト1位だったことはあまり知られていないでしょう。
ヒジ痛で鳴かず飛ばずのまま社会人出身ということもあり
だんだんとロッテの中でも忘れ去れていったようです。
同じように阪神でも少しずつ存在感が薄れていった深沢とトレードで
福間は阪神へやってきました。
よほど阪神の水が合ったのでしょうか、確変どころの騒ぎじゃない大活躍を見せます。
70試合以上投げて防御率2点台。もっぱら中継ぎですが連投も厭わず時には先発も。
ワンポイントもあればロングリリーフもするという今では考えられないようなペースでした。
雨、雨、権藤のように谷間、谷間、福間なんて揶揄されましたね。
一方でロッテへいった深沢も15勝をマークして、このトレードは双方にとり大成功となりました。
細身で大柄ではないですが、キレのいい真っ直ぐと抜群の制球力、
それとこの人はフィールディングや牽制が上手でバッティングもなかなか達者でした。
優勝したときはやや登板過多による疲労と衰えがあったように思いますが、
日本シリーズでホームランを打たれた西武の西岡に対して翌日見事にリベンジしたことを
僕は昨日のことのように鮮明に覚えています。
 
福間の活躍もここまでで翌年はケガでシーズンの大半を棒に振りました。
連覇も潰えた9月にひっそりと戻った福間は広島球場で先発し
7回ぐらいまでゼロに抑えたことを覚えています。
その後はまったく往時の面影はなく静かにユニフォームを脱ぎました。
明るい性格と器用さで良い投手コーチになると思いましたが、
阪神でもオリックスでも短命に終わりました。
ときどき解説で声を聞きますが相変わらず明るいですね。
今の野球ではもう福間のような無茶な登板回数と球数をこなす投手は出てこないでしょうね。

9佐野仙好

弘田、長崎と続いたら佐野を取り上げないわけにはいきません。
勝負師、鉄仮面、寡黙なファイターです。
小学校の2年生の時だったかな?
まだ大洋が川崎球場を本拠地としていた時代です。
打球を追った佐野がボールに飛びつきそのままフェンスへ激突。
当時はコンクリートに塗装をしただけの頃でした。
頭蓋骨陥没骨折という大ケガで球場に救急車が来ました。
打球を取ったまま離さなかった佐野の闘志はすさまじかったですが、
ここで大洋の選手はなんとタッチアップをして得点します。
これには吉田監督も猛抗議をしましたが判定は変わりませんでした。
ただ、それから各球場のフェンスにラバーが張られることになりました。
2ヶ月後に復帰した佐野は最初の打席でホームランを放ちます。
なんてすごい選手なんだろうと思いましたね。
 
佐野は1973年のドラフト1位です。
6位がテストを受けて入った掛布ですね。
ポジションは2人ともサードで伝説ともなったポジション争いを演じます。
敗れた佐野はレフトへコンバートされてあの大ケガをするわけですが、
佐野はずっと「自分が長くやれたのはカケのおかげ」と言い続けていました。
決して目立つ選手ではなかったですが今はもうない勝利打点というタイトルの
初代タイトルホルダーとなったのも佐野でした。
とにかく勝負強くてヤマを張るというのが代名詞でしたね。
 
優勝した年もクリーンナップの後ろで佐野が控えていたことが大きいと思います。
相手バッテリーは岡田と勝負せざるを得ないわけですから。
翌年は4月だけでホームランを量産してびっくりしましたが、
終わってみれば例年のように15本ぐらいでした。
その翌年は佐野が活躍した最後の年だったかもしれません。
ホームランは10本ですが、巨人のサンチェからホームランを打っています。
サンチェは在籍中に2本しかホームランを打たれていません。
1本はたしか大洋のポンセだったと記憶しています。
だから日本人で打ったのは佐野だけなんですよね。
 
掛布が若くして引退したことが佐野の衰えを早めたのは否めません。
甲子園で引退試合をしたときにヘルメットを取ってファンに挨拶しましたが、
髪がかなり白くなっていたのを覚えています。
前述した頭蓋骨の骨折でケガをした場所だけは白髪しか生えなかったそうです。
引退後は解説などはすることなく打撃コーチやスカウトを歴任しています。
たしかにヒーローインタビューでもあまり面白い話をすることはなかったので、
佐野には裏方仕事が適任だったと思います。
でもスカウトとしてはその誠実な人柄で阪神に貢献してくれています。
巨人との争奪戦となった藤田太陽が阪神入団したのも佐野の功績でした。
太陽は故障が多く輝くことはなかったですが
佐野もそれをずっと悔やんでいましたね。
今もスカウト部長として阪神のために腕をふるってくれているのはうれしいです。
僕はね、佐野のような寡黙で勝負強い打者をまた獲得してくれないかと思っているんですよ。

3長崎慶二

阪神が球団の歴史で唯一日本一に輝いた85年、
歓喜の日本一に導いてくれたのが長崎でした。
 
大洋で首位打者に輝いた長崎がまさか阪神に来るとは思いませんでした。
高校のときに仲が良かった友人が大洋ファンで悔しがってましたね。
それもやや格下の池内とのトレードでしたからね。
長崎は北陽高校出身で少年時代から阪神ファンだったようです。
高校卒業時も阪神にドラフト指名されましたが拒否していました。
法政大学で技術を磨きドラフト1位で大洋に入団。
僕はあまり覚えていませんが足も速く長打力もある好打者だったみたいです。
長崎と言うとあのグリップを低く構えるフォームですね。
実は僕も草野球ではあのフォームを真似していました。
とても力が抜けていい感じで打てるんですよ。
左バッターだったので長崎と藤田平のフォームは参考にしましたね。
共通しているのは軽く構えて確実なミートをするということです。
それでいて二人とも毎年2ケタのホームランを打っていましたから
本当に参考になりました。
たしかバースも長崎のフォームを参考にしていたといいます。
 
阪神移籍後、レフトには不動の6番打者佐野がいましたから、
長崎は代打として控えていることが多かったですが、
7月を過ぎて佐野が少し調子を落とすとスタメン起用が増えました。
印象に残っているのは甲子園のナイターで古巣の大洋と対戦したときです。
前年までのチームメートだった斉藤明夫から見事な代打サヨナラホームラン。
しかも長崎の打球って低い弾道で打球が早くてかっこいいんですよ。
 
優勝のビールかけのときもすごくうれしそうで、
「本当に阪神に来てよかったです」と言ってくれました。
そしてクライマックスとも言える日本シリーズです。
6番で起用された佐野がとうとう1本もヒットを打てず
第5戦から長崎が器用されました。
この試合では2ランホームランを放ち、
さらにはヒットと盗塁を決めて平田のタイムリーで生還するなど大活躍。
所沢へ移動した第6戦は初回に特大の満塁ホームラン。
僕は現地で見ていたのですが、初回簡単に2アウトを取られたあと
バースがヒット、掛布もセンターやや左へヒット、岡田がピッチャー強襲ヒット、
そして長崎が高橋直樹から逆風をものともしない弾丸ライナーのホームラン。
あれ以上打球の角度が高くても低くてもスタンドへ届かなかったと思うほどの完璧な当たりでした。
翌年も代打でそこそこは打ちましたがやっぱり85年に集約されますね。
村山監督の就任で若返りもあって退団を余儀なくされ引退しましたが、
その後も阪神のコーチや全日本のコーチを務めるなど活躍されていました。
大洋ファンの人には悪いけど自分たちも長崎自身も阪神OBという印象が強いですね。
たった一度の日本一を味わうことができた大恩人です。

1弘田澄男

クリーンナップの大爆発も魅力的な85年のタイガースですが、
伏兵もなかなか多士済々でした。
北村、吉竹、平田、木戸といった選手も輝いていました。
中でも核弾頭真弓とバースを繋ぐ2番の弘田がいぶし銀の活躍でしたね。
 
ロッテ時代に攻守走揃ったリードオフマンとして活躍した弘田が
タイガースへやってきたのは35歳ぐらいのときだったでしょうか。
まさか弘田が阪神へ移籍するとは思っていなかったのと
もうさすがに衰えてるだろうなという思いが交錯しました。
自分は北村ファンだったのでちょっと複雑でしたね。
それがシーズン開幕から打ち出の小槌のようにヒットを連発。
終わってみれば3割1分をマークする大活躍でした。
 
身長163センチの小兵でしたがツボに嵌ると一発あるんですね。
タテジマの背番号1がとても似合っていたと思います。
考えてみれば弘田は高知出身で阪神のキャンプ地ですから
多少なりとも縁があったというところでしょうか。
 
移籍2年目も新ダイナマイト打線の中にあってその打撃は冴えました。
右打ち、エンドラン、バスター、犠牲バントと相手が嫌がる役目をきちんとこなし
真弓を進塁させてバース、掛布に繋ぐ見事な働きぶりでした。
夏場になってやや疲れが見えて北村と吉竹にその座を奪われましたが、
甲子園の大洋戦かヤクルト戦だったか代打でクリーンヒットを放ち
見事に1500安打を達成したことを覚えています。
それが勝利に結びつく一打で吉田監督の采配の妙も立派なものでした。
 
高校2年生だった自分は学校で仲間と日本シリーズの話をよくしました。
中でも阪神が西武の主催ゲームで誰を指名打者にするのかが注目されました。
僕は佐野か長崎あたりを候補として考えていましたが、
吉田監督が「DHは弘田でいきます」と言ったときは意外でした。
そういえば弘田はロッテ時代に日本シリーズMVPを取っていたんですね。
ヒット数は少なかったですが第一戦で真弓を塁に置いてバスターを仕掛けて成功、
そしてバースが3ランを放ち池田がそれを守り切り完封。
敵地での勝利で一気にタイガースに勢いがついたと思います。
翌年も前半はけっこうスタメンで起用されましたが、
チームの若返りもあって実質その年で現役を終えました。
62年は背番号も70番台でコーチ兼任でしたが一軍登録されることはなかったですね。
 
引退後は阪神のコーチとして残りましたが、
その後も巨人や横浜でコーチとして活躍しています。
巨人時代にローズとつかみ合いの喧嘩になったニュースを見て
「さすがに弘田、いごっそうだな」と懐かしく思いました。
それからも独立リーグや母校の高知高校でコーチを務めていましたが、
プロ入りしてからほとんどユニフォームを着て過ごしていたわけですね。
本当に野球が好きなんだなあと思います。
弘田と言えばプレースタイル同様に手先が器用で、
模型メーカーのタミヤの小冊子にも登場したことを覚えています。
もう70歳を越えましたがいつまでも元気でいてほしいと思います。

2020年5月20日 (水)

32加藤博一

加藤博一が阪神にいたことを知っている人はもう少なくなりました。
というよりも加藤という選手を知っている人自体があまりいません。
あんなに早くに亡くなってしまうなんて思いませんでした。
早いのは足だけでいいのに。いい人ほど早く召されてしまうような気がします。
子どもの頃に憧れた選手が亡くなるのはつらいですね。
今は自分も年齢を重ねてしまったので
星野仙一さんや衣笠さんが亡くなったときも
悲しかったのは確かですけど素直に受け止めるようになってしまいました。
大杉勝男と加藤が亡くなったときはもう泣いちゃいましたね。
まだそれだけ僕も若かったんでしょうけど。
 
加藤を知ったのはシーズン中ではありません。
オフのプロ野球選手のかくし芸大会みたいな番組です。
とにかく加藤はひょうきんで芸達者でしたね。
江川にやたらと強くて、あの太いバットでパチーンと打つバッティングが特徴でした。
足も速いし守備範囲も広いけど、たまにやらかすんですよね。
チョンボの加藤って言われて憎めない選手でした。
 
阪神でレギュラーになって背番号8をもらったあとはケガばかり。
あのまま32でいれば良かったのにと思うことがあります。
同郷で同じライオンズ出身の真弓と仲良しで、
チームが連敗したときに2人でわざと帰りのバスで大騒ぎして
コーチが2人に「すまんな、すまんな」と言いながら鉄拳を浴びせたそうです。
わざと暗いムードを一掃するためにバカ騒ぎしたんですが、
コーチもそれをわかっていてもチームを締める意味で殴ったわけですね。
それを見ていたナインが笑って暗いムードが吹っ切れたという逸話。
これは真弓の著書で読んだ話ですがとても好きな話なんです。
 
故障がちになった加藤は大洋へトレードに出されますが、
近藤監督のもと高木豊、屋鋪とのスーパーカートリオで大活躍。
オールスターにも出場したしいいトレードになりましたよね。
横浜スタジアムの左翼席から加藤をよくヤジりました。
もちろん温かい言葉でですよ。
みんな加藤が好きだから優勝目前の頃に外野から加藤へ向けて
「優勝のときは帰って来いよ!!」と叫ぶと加藤がニタッと笑って何か言い返してましたね。
何と言っていたのかはわかりませんけど阪神ファンと加藤はずっと仲良しでした。
引退してからは解説で頑張ってましたけど阪神にはもう戻って来なくて寂しかったな。
加藤のことを思い出していると大洋時代の応援歌だった蒲田行進曲が今も頭の中にリフレインしてしまいます。
もっともっと長生きしてファンを楽しませてほしかった人の一人です。

4マット・キ-オ

先日、キーオの訃報を見て強いショックを受けました。
青い目のエース、暗黒時代の入口で奮闘したキーオの姿を思い出します。
87年、V奪回を目指す阪神の前途は明るさに満ちていました。
掛布の復活、仲田や猪俣といった若き左腕たちの台頭への期待。
どう考えても優勝するだろうと楽観視していたことを覚えています。
 
バッキー2世の見出しとともにやってきたのがエースとして期待されたキーオ。
その風貌からクロコダイルダンディとも呼ばれましたね。
お父さんが南海ホークスに在籍していたこともあり小さい頃を日本で過ごしたキーオは
日本語もなかなか達者でマートン以上に堪能だったと言います。
オープン戦でもナイスピッチングを連発して盤石かと思ったのですが・・。
 
シーズンが明けると阪神は4月から奈落の底へ。
特に5月に来日したヤクルトのボブ・ホーナーのデビューとなった神宮3連戦は悲惨でした。
池田、仲田が木っ端みじんとなり3試合で4ホームランを献上したと記憶しています。
打線も掛布が大不振、それに引っ張られるように岡田も今ひとつで真弓は衰えが目立つようになり、
バースひとりが孤軍奮闘といったかたちになりました。
これでは勝てる試合も少なくなるというものでキーオも打線の援護なく負ける試合が多かったです。
それでもあの独特のカーブとクセのあるストレートで見事に2ケタ勝利を挙げます。
翌年は巨人にやたらと強くて5勝負けなしだったように思います。
自分が後楽園球場で観戦した試合では5対0で堂々の完封勝利を飾りました。
3年連続2ケタ勝利をマーク、あのどん底のタイガースで4年で45勝ぐらいしたのかな。
85年や2003年の打線をバックに投げたら20勝は堅かったと今も思います。
 
4年目は故障もあり中村監督の構想から外れて退団しました。
アメリカへ戻ってからは不遇続きでケガをしたり私生活も荒れたりしたようです。
せめて始球式とかで日本に呼んであげてほしかったなあと今も後悔します。
バッティングも良かったんですよ。ホームランを2本放っているんじゃないかな。
訃報を聞いた岡田も「ええやつやったよな」と懐かしそうに語っていました。
ずいぶん後になってウィリアムスやメッセンジャーの活躍を見るたびに
キーオの雄姿を思い出したりもしましたね。
弱いチームの中にあっていつも明るく一生懸命プレイする姿を。
僕はそんなキーオの姿が大好きで草野球でも背番号4をつけていました。
川藤や山脇じゃないですよ、あくまでもキーオに対するリスペクトを込めてです。
これからも新外国人がやって来ますが「キーオ2世」と呼ばれるようなピッチャーが出てきてほしいですね。

18池田親興

小林繁が電撃引退をしたのが1983年のこと。
11勝をあげた投手が引退するなんてちょっと考えられない出来事でした。
翌年の阪神はてんやわんやです。
ただでさえ台所事情が苦しいチームで開幕投手が誰なのかが話題となりました。
抑えの山本和行が有力視されていたような記憶がありますが、
オープン戦で安定していたルーキー池田の抜擢も十分可能性がありました。
結局は大ベテランの野村収が開幕投手を務めましたね。
 
さて、池田です。
法政大から日産自動車を経てドラフト2位で阪神入団。
なかなかの男前で近藤真彦に似ていると話題になったことも。
実際はあんまり似てないというか池田のほうが二枚目だったと思います。
この年の1位は中西で3位が仲田幸司だからかなり豪華なドラフトでした。
ルーキーイヤーに9勝を挙げて飛躍を期待されましたが、
池田はとにかくケガが多かったですね。
85年の優勝も何とか先発としての恰好はつけましたが、
結局、2ケタ勝利は挙げられませんでした。
覚えているのがノックアウトされた翌日の巨人戦にまた先発して好投したこと。
吉田監督はけっこうこういった起用をしました。
 
池田の野球人生のハイライトは日本シリーズ第1戦の完封勝利でしょう。
スコアは3対0。バースの3ランを守り切りました。
土曜日で自分は学校に通っていました。
第2戦のチケットを持っていた僕は学校が終わると急いで帰宅して
自宅から西武球場へと向かいました。翌日の席の確保で徹夜で並ぶためです。
もうすでに行列ができていたので最後尾に並んでゴザを拡げて座っていると
ラジオから阪神勝利のニュースが聞こえてきて列を成す僕らも大喜び。
球場からは六甲おろしの大合唱とともにファンが凱旋してきました。
池田のピッチングはあとからビデオで見ましたが低めに集めた見事な投球です。
 
翌年は開幕から好調で2試合続けて完投したあとにケガしたんじゃなかったかな。
それからはまったく精彩がなくダイエーへトレードとなりました。
パリーグは抑えでけっこう活躍しましたね。
最後はヤクルトに移籍しましたが野村再生工場でも復活はできませんでした。
スポーツニュースでもホークス専属といった感じでしたが、
阪神V戦士を集めた番組で中西や掛布といっしょに登場したときは嬉しかったですよね。
自分の中では今も池田の飛び跳ねるような雄姿が忘れられません。
甲子園のマウンドがとても似合う背番号18でした。

2020年5月19日 (火)

22藤川球児

野球漫画のストレート。
これが僕の球児に対する思いです。
小さい頃に夢中になったドカベンに登場する
山田のライバルたちが投げるような真っ直ぐ。
不知火や犬飼小次郎みたいな
「ゴォォォォォォーッ」という擬音がつくような火の玉ストレート。
長いこと野球を見ていますが球児を超える真っ直ぐを見たことがありません。
遠い昔の尾崎やプロ野球黎明期の沢村はこんな感じだったのかなと思います。
 
ドラフト1位で入団した球児ですが、
正直、線が細くて大丈夫かなと思いました。
甲子園ではどちらかと言うとホームランを打った打撃に注目していたし
あとはお兄さんとの兄弟バッテリーが話題になっていました。
そんな球児を1位指名したスカウトの眼力は見事です。
じっくり育てる方針だったのでしょうが時間はかかりました。
岡田二軍監督は先発をあきらめさせてリリーフで花咲かせました。
星野監督の優勝で賑わったオフには戦力外リストに入っていたのを
あわてて止めさせたのも岡田監督です。
 
本塁打厳禁の刺繍をグラブに施して
JFKの一角として仁王立ちする球児はしびれました。
久保田がちょっとハラハラさせたけど90試合に投げて防御率1点台ですからね。
その前に投げるウィリアムスと球児はもう安心して見ていましたね。
ちょっと夏場からバテる傾向があって
それが阪神の優勝の少なさにつながっているきらはあります。
ウッズや村田修にホームランを打たれて僅差で中日に敗れたことがあります。
それを含めても球児には文句はなかったですね。
 
アメリカで故障して傷心で日本に戻り
独立リーグを経てタイガースへ復帰。
当初は先発でうまくいかずリリーフに復帰して
年々またストレートが伸びるようになってきた。
特に昨年までの2年ぐらいは鉄壁でしたね。
250セーブまであと少しで今季中に達成は間違いないところでしたが
コロナの影響でちょっと難しくなりました。
でも甲子園のマウンドにいつまでもいてほしい投手です。
カブレラとのストレート勝負、本当にマンガそのものでした。

24桧山進次郎

ひーやんですね。
年齢的にも1つ違いなのでとても好きな選手でした。
92年、タイガースが奇跡の優勝争いをしたときのルーキーです。
掛布2世と期待されましたが外野手として最初から登録されていました。
たしかあの年に内野安打でプロ初ヒットを記録したのかな?
あと甲子園でチャンスで外野へ大飛球を打って
絶対抜けたと思ったら伊藤外野手のファインプレイに阻まれました。
あれが抜けていたら一軍定着していたかもしれないし、
もっと飛躍させるとあの試合に勝てていたら、
八木の幻のホームランがなくても優勝していたかもしれません。
 
それからずいぶん遠回りをしてしまい
大卒で一軍と二軍を行き来していたからちょっと心配しました。
藤田平監督の年だから96年ぐらいにレギュラー定着したと思います。
東京ドームの開幕戦で斎藤雅樹からヒットを打ちましたが、
結局、阪神はそのヒットのみであとは全員凡退したことを覚えています。
4番を打ってホームランも20本以上打ちましたが、
三振が100を越えて新庄と争ってましたね。
守備はすごくうまかったです。新庄よりも安定していたとも思います。
 
野村監督の時代に一発を捨てて打率が安定してきました。
濱中の台頭でレギュラーから外された時期もありましたが、
その濱中が脱臼で戦列を離れたことで4番に定着し優勝に導いたことは記憶に新しいですね。
気の毒だったのは特に力が落ちたわけでもないのに
スペンサーにスタメンを明け渡して代打に回ってしまったことでした。
あの当時のタイガースは選手層が厚くて藤本や関本もスタメン落ちするぐらい。
そこで腐らずに代打の神様と呼ばれるまでの選手になったのは嬉しいことでした。
 
長年にわたりタイガースを支えた桧山にも引退のときがきました。
最後のクライマックスシリーズで代打で登場し
ミコライオでしたっけ?とにかく150キロ超のストレートを引っ張り
慣れ親しんだライトのポール際にホームランを叩き込んだときは泣けましたね。
引退後は明るいキャラクターでテレビで活躍していますけど、
いつかタイガースに戻ってきてほしいですね。

22木戸克彦

僕は高校野球も大好きだったので小学生の夏休みは
朝から夕方までNHKをずっと見ていました。
当然ながらいろいろな思い出があります。
いちばん好きな学校は和歌山県の簑島高校。
延長18回の死闘を覚えている人もだんだん少なくなりました。
それから浪商の牛島とドカベン香川のバッテリーなどなど。
そんな中でも強烈に印象にあるのは西田と木戸を擁するPL学園ですね。
清原と桑田のKKコンビの時代よりも強かったように思えます。
 
主将の木戸とエース西田はともに法政大学へ進学して
西田は広島カープへ、木戸はドラフト1位で阪神に指名されました。
インサイドワークが良くて打棒にも秀でたいいキャッチャーでしたね。
阪神入団してからは腰痛でなかなか活躍できませんでしたが、
吉田監督が就任すると前年に10本塁打を記録した山川に代えて木戸を抜擢しました。
この年は故障明けの岡田をセカンド固定したり抑えに中西を起用したりと
打つ手が次々に当たった印象があります。
試合の中でも継投策とか代打起用とかピシャリと当たりましたねぇ。
 
木戸は開幕間もない巨人戦でプロ1号と2号を連発。
守っても伊藤と工藤と中田を好リードで引っ張りました。
完投した伊藤が「木戸のリードのおかげ」と言っていたのを覚えています。
ちょうど河埜の落球とバックスクリーン3連発などがあった3連戦でした。
 
7号ぐらいまでは全部巨人戦だったんじゃないかな。
甲子園の大洋戦で3連発をマークしてね。
実況が「背番号22が躍っています!」と言っていました。
田淵と重ね合わせていたんでしょうね。
 
日本シリーズも堅い守りで阪神を日本一へ導きましたが、
木戸もこの年以降は精彩を欠きました。
60年も含めて一度も規定打数に達したことはなかったと思います。
晩年は湯舟との好相性を活かして活躍してましたね。
引退後は絶対に監督をやると思っていましたがヘッドコーチまででした。
おそらくもう現場でユニフォームを着ることはないと思います。
なんとなくですけど、長年タイガースを見ているとわかるんです。
中西、平田、木戸のNHKトリオが揃う日をもう一度見たいですけどね。

7今岡誠

暗黒時代と言われた90年代は本当につらかったです。
球場へ応援に行くもたいがい負けるし
開幕戦に負ければそのまんま最後まで6位だし。
オフも受難で「阪神へは行きたくない」というアマチュア選手がけっこういたし
指導者でも「おたくへは行かせたくない」という人もいました。
そんな中で敢然と阪神を逆指名してくれたのが今岡でした。
PL学園時代から甲子園で活躍し東洋大学でも大活躍したスラッガーです。
アトランタオリンピックのアメリカ戦でのホームランも懐かしいですね。
こんなサラブレッドが阪神を指名してくれるなんてと感激したものでした。
 
1年目からけっこう起用されて2割5分2HRだったかな。
プロ1号は甲子園で斎藤雅樹から打ちましたねぇ。
坪井と今岡の1・2番は弱い阪神の中でも数少ない見どころでした。
野村監督の就任でさらなる飛躍が期待されましたが
無表情というかヌーボーとした感じが嫌われて干されてしまいます。
功罪相半ばというか平塚とかもこの頃に精彩を失いましたね。
 
2軍に落とされた今岡でしたが岡田監督がずいぶんフォローしてくれたようです。
そして星野監督が就任したことが復活の序曲。
ただ当初は上坂が1番打者候補でした。
オープン戦で今岡を起用したところポンポンとヒットを重ねてそのまま開幕へ。
翌年の優勝時には切り込み隊長として3割4分で首位打者。
ファウルグランドの広い甲子園で足の遅い今岡が3割4分って驚異的ですね。
ほとんどがクリーンヒットです。
翌年からは長打力も備わり2005年は140打点を超える大活躍。
金本の後を打つ不動の5番打者として存在感を見せつけました。
特に満塁での打率が恐ろしいほどの数字でした。
これが今岡の事実上最後の活躍となりました。
デッドボール禍やばね指に悩まされて急に打てなくなり
最後は戦力外通告を受けてロッテへ移籍しました。
 
久しぶりに阪神へ復帰して2軍コーチとなりましたが
1年ほどでロッテの井口監督誕生に合わせて移籍してしまいました。
いつかまたタテジマに戻り第二の今岡を育ててほしいものです。

16岡田彰布

ミスタータイガースといえば掛布ですが、
自分の中でのミスターは岡田なんですよね。
掛布もすごい選手でしたが
この年齢になって振り返ると
「あの試合は掛布で決まったよなぁ」
そんな試合が少ないように思います。
もちろん300本塁打ですから
印象に残るシーンはたくさんあるけど、
サヨナラとか満塁とか逆転となると
断然、岡田の印象度が強いですね。
 
少年時代の僕は高田馬場で暮らしていたので
早稲田大学と早稲田実業には強い思い入れがあります。
練習グランドも近かったですし地元意識がありました。
祖父がアマチュア野球ファンだったこともあり
早慶戦や高校野球の東京予選はよく見にいきました。
 
当時の早稲田大学の四番が岡田でした。
同時期の早実のエースは荒木大輔ですね。
岡田は六大学史上最強と言えるスラッガーです。
ドラフトは6球団だったかな?
その後の清原や野茂と並ぶぐらいの目玉でした。
大阪生まれで阪神ファンの岡田は相思相愛で阪神に入団。
1年目はヒルトンとの併用でなかなか起用されず
いろいろ問題が起きましたが2割8分で18HRの新人王。
オールスターでの日ハム木田との対決が懐かしいですね。
 
順風満帆のプロ人生も大腿部断裂に見舞われます。
代打とか外野を守る岡田を見るのはつらかったですね。
早稲田の大先輩である広岡監督の引き合いで
西武へ移籍という話が実際にあったようですが、
吉田監督が就任すると岡田をセカンドへ戻し選手会長に据えます。
これが見事に機能して3割4分で36HRを放ち優勝に貢献しました。
あの年と翌年春先までの岡田は弱点がないぐらいの打者でした。
インコースのさばきは天才的だし外角は右に大きな飛球を打てるし。
 
結局はこの短い全盛期だけで終わってしまいますが、
93年からオリックスに移籍して指導者経験を積み
満を持して阪神へ復帰して星野阪神の優勝にも貢献しました。
二軍監督としては濱中や関本らを育て上げましたねぇ。
そして一軍監督に就任しJFKを擁して常勝チームを作り上げました。
土壇場で優勝を逃した2008年を最後にユニフォームを脱ぎましたが、
もう一度甲子園に戻ってきてもらってタテジマを着てほしいと思います。
あれだけ阪神を愛しているOBはいませんからね。

5北村照文

コロナのせいでヒマなんで新しいカテゴリーを。
こんだけブログせっせと書いたの何年ぶりやろか。
僕は阪神ファンなんで阪神の選手たちについて書きます。
だんだん記憶が遠のいてくるので覚えているうちに書き留めておきます。
 
第一弾トップバッターは真弓といきたいところですが、
僕がいちばん好きだった選手からということで
北村照文外野手から書こうと思います。
 
昭和54年のドラフト3位で同期1位は岡田ですね。
ぜんぜん知らない選手でしたが3位指名だったんですね。
中2のときに何気なく後楽園の巨人対阪神をテレビで見ていました。
たぶんGW中のデイゲームだったと思います。
二塁走者は青い稲妻松本でライト前ヒット、
「あぁ追加点か」と思っていたら
ライトからグワーンと音が聞こえるようなダイレクト返球。
余裕でアウトでした。捕手が若菜か笠間かは覚えていませんが。
あんな返球はじめて見たのでそれから北村は強く印象に残りました。
 
あの頃2年連続でダイヤモンドグラブ賞受賞しているんですよね。
控えの選手でっせ。レギュラーちゃいまっせ。
ちょっと今じゃ考えられないよなぁ。
とにかく打つほうが不器用で三振が多くて小技も今ひとつ。
それとチョンボがちょいちょいあって2番とかじゃ使いづらい選手でした。
言うても当時の阪神は1番に真弓がいたので2番しかなかったんですがね。
 
昭和60年の日本一メンバーですがシーズン途中までセンターは弘田がいて
後半戦から吉竹と併用で起用されていました。
ラジオ中継で覚えているのが7月ヤクルト戦のサヨナラヒット。
お子さんが生まれた日のナイターでしたねぇ。
それから9月に池田が完封した試合でこれもヤクルト戦でしたが、
小川だったかな?左中間の大飛球をジャンプ一番キャッチして
満塁ホームランを阻止したプレイでした。
たしかこれでヒーローインタビューに呼ばれてましたね。
 
その後もよく起用されましたしホームランをけっこう打つようにもなったけど
村山監督時代にシーズン中のトレードで阪神を去りました。
西武と中日でプレイして引退しましたが、
あれだけの守備の名手だったのに一度もユニフォームを着ていません。
阪神復帰後もスコアラーとスカウトを歴任しただけですね。
スカウトとしての手腕は立派なもので久保田や狩野や原口を見い出しています。
でもなぜか解雇されてしまったのは今も謎です。
その後は福井ミラクルエレファンツで監督しましたが退団しています。
 
昭和60年のVメンバーの集まりにもあまり顔を出さないようで残念ですが
いつまでも阪神の一員として球団に関わってほしい人です。

ベストナイン

出かけない間、Youtube三昧。
自分は野球が好きなのでプロ野球OBのチャンネルをよく見ます。
中でも片岡篤史のが面白いかな。同年代なんで余計楽しいですね。
触発されたので自分の選ぶベストナインを考えてみました。

投手 野茂英雄(近鉄ほか)
捕手 古田敦也(ヤクルト)
一塁 バース(阪神)
二塁 岡田彰布(阪神)
三塁 掛布雅之(阪神)
遊撃 石毛宏典(西武ほか)
外野 金本知憲(阪神ほか)
   門田博光(南海ほか)
   イチロー(オリックスほか)
 
まあ絞れないですよね。
村田兆治、山田久志、鈴木啓示・・・
セカンドは身びいきですねぇ。たった一年の全盛期の岡田は本当にすごかったのでね。
真弓も前田智も新庄も選びたいですなぁ。

2020年5月17日 (日)

5月半ばを過ぎて

こんな日々が過ぎるためまともな城館探訪は2月の印旛沼周辺以来御無沙汰です。
山城に限れば1月下旬の浄福寺城以来登っていないですね。
 
最近はやることないから自分のホームページをちょこっといじっています。
写真を足したり簡単な図面を描いたり。
縄張り図じゃなくてイメージ図ですね。何となくこんな感じっていう程度の。
 
古い記録ややっつけ仕事気味な内容にも書き足したりしています。
振り返ると40代半ばがいちばん元気だったかもしれません。
自分の中でのエポックメーキングになったのは群馬県の鼠喰城でした。
2009年だったかな。もう11年も過ぎたんだ・・・。
仲間4人で直登したんですが、あれからは少々の山も大丈夫になりました。
根性が座ったんでしょうね。よくあんな何もない山へ苦労して登ったなあ。
 
それから山梨県の御坂城へ登りたくなって何度か挑戦して挫折して。
体重を絞って体を鍛えなおして見事に麓から攻略しました。
さすがに50歳を過ぎるとあんなに無理はできないようで、
何よりも気力のほうがもたないというか企画しようとも思わないですね。
 
まだまだ老け込みたくないなぁと去年の秋に一念発起して関西へ。
京都、奈良、和歌山、そして大阪。
山城の高取城あり、奈良から和歌山へ鈍行での長距離移動ありと
かなり無理なスケジュールを企図しましたが無事クリアしてしまいました。
ちょっと自信を取り戻すことができて今年を迎えたらこれですからねぇ。
とにかく早く、一日も早く安心して暮らせるようになってほしい。
それだけですね。

2020年5月 7日 (木)

近況というか何というか

とうとう山城シーズンは終わってしまいましたね。
こんな映画みたいなことが起きるなんて世界中の誰も思わないですね。
犯人は当初の予想通りでしょうがそれを世界中が追及したら戦争になるだろうし。
 
ワクチンは早くても来年の秋ぐらいでしょうし
本当に効能のある薬の開発もまだ時間がかかるでしょう。

当初イギリスが提唱していた集団免疫は怖くて無理ですね。
アメリカも中国もそちらに舵を切るようですが
スウェーデンは恐ろしいことになっています。
 
抗体は作られると思います。
少しずつ抗体を持つ人が増えても3年ぐらいはかかるかもしれません。
それまでにはワクチンも開発されるでしょうし。
今は対症療法で良い治療薬、合う治療薬を見つけることが急務です。
1日半で1万人が亡くなっているのだから
まずは病院の負担をできる限り減らしつつ軽症者を治療して社会復帰させること。
社会を回しつつ患者を治すことに尽きますが、これがいちばん難しいです。
 
日本は政府の無能を露呈しました。
3ヶ月かけてマスク2枚。それもまだ届きません。
460億円費やしてまだ。そうしているうちに店頭に並ぶようになりました。
10万円の給付金もまだです。
自粛、休業を強いてまだ給付しない。
言ってみたら滞納ですよね。追徴しないといけない。

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