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城郭図鑑

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2020年10月28日 (水)

比企の里をてくてくと

3月以降はほとんど遠出をしていませんでしたが、
9月の終わりぐらいから少しずつ出かけるようにしています。
足が萎えちゃうからね。
10月は久しぶりに勝手知ったる飯能市の大河原城に登りました。
あれぐらいの比高差でもえらい疲れてしまいましたが、
やっぱり山や丘を登ったり遠くを眺めるのは気持ちがいいですね。
 
11:51 前田利長陣所(埼玉県熊谷市)
100_0007_20201028172601 冑山神社
東松山駅からのんびりと雷電山を目指そうとしましたが、
途中でバスに飛び乗ってしまいました。
以前は何てことない距離でしたが、休み明け初戦ということで。
最初に来たのは冑山古墳です。
前田利長の軍勢が布陣した場所であります。
ぐるりと曲輪が一周しているのが印象的でした。
 
12:31 前田利家陣所(埼玉県東松山市)
100_0024_20201028172601 大雷神社
続いてはお父さんの前田利家陣所跡です。
息子の陣場とよく似た感じで曲輪が取り巻いています。
北西に向けて張り出した曲輪が良かったですね。
写真にするとさっぱりですが虎口らしい地形もあるし。
 
12:55 比企能員館(埼玉県東松山市)
100_0043_20201028172701 比企一族顕彰碑
実に18年ぶりです。
次の18年後なんてもう生きていないかもしれません。
本当に生きているって素晴らしいことだと実感しますね。
以前はこの顕彰碑はなかったと思います。
見落としていたのかもしれませんが。
 
ここまで来るとさすがにバスがないので森林公園まで歩きました。
1時間ちょっとですけど、相変わらず緑が豊富で気持ちいいですね。

2020年8月29日 (土)

群馬の思い出

せっせとリニューアル中です。

10年以上前に登った群馬県の山城

懐かしいっすね。

2020年8月21日 (金)

ひっそりと

こんなご時世なので、
引退とは言いませんが、
細々とやれる範囲でね。
ドカベンの登場人物で言ったら、
岩鬼や殿馬ではなく、
微笑や山岡クラスでもなく、
今川か仲根ぐらいのポジションで。

2020年6月 6日 (土)

11村山実

村山さんの選手時代は知りません。
というか全盛期は生まれてないですね。
引退試合も僕は野球に興味を持つ前の出来事です。
最初の出会いは小学生のときに買った野球入門。
そこに村山さんのオフのトレーニング方法が紹介されていました。
初版が発行されたときにはまだ現役だったのでしょうね。
冬の間はとにかく走る。
舗装された道路は膝を痛めるから
土手やグラウンドの土の上を走ろうと書かれていました。
 
背番号11は永久欠番になっていることからも
村山さんの阪神時代の功績がうかがい知れます。
大卒で222勝ってすごい記録ですからね。
子どもの頃の印象は日本テレビの解説ですね。
「あれはファウルだったですねぇ」
それがもう代名詞というかね。
昔の本や古い時代の映像を見て、
「あぁ、やっぱりかっこいいなぁ」と思いました。
昭和45年かな?防御率0点台を記録しています。
選手としては晩年だと思いますが、
1点取れば勝ちですからね。
 
そんな村山さんが阪神の監督に復帰したのは昭和の最後でした。
バースがシーズン途中で退団し球団代表が自殺。
そして掛布もシーズン終了を待たずして引退を発表。
何も見るべきものがないというシーズンでした。
数年前の優勝は何だったんだろうか。そんな気持ちでしたね。
翌年、村山監督はチームの若返りを図りました。
佐野、田尾といったベテランから
大野、中野、和田といった若手にチャンスを与えました。
平田や木戸といった中堅すらも出場数が減ったと思います。
新外国人のフィルダーが大活躍し3年目のキーオも大車輪の活躍で
チームはなんとか5位に浮上し最下位を脱出しました。
でもそれだけだったという印象です。
 
今も覚えているのは神宮球場のラストゲーム。
このとき村山さんの退任が決定していました。
このゲームで阪神は快勝しています。
ゲーム内容は覚えていませんが圧勝しました。
この試合は生で観戦しており、
試合後に3塁側内野席前を通る村山さんには
阪神ファンの惜別コールが鳴り響いていました。
僕らも外野席からムラヤマコールを叫びましたが、
村山さんは選手通用口からくるっと振り返り、
帽子を振って僕らに応えてくれたことを本当によく覚えています。
満面の笑みでした。遠目にもそれはよくわかりました。
 
阪神大震災で村山さんは自宅もオフィスも大きな被害を受けています。
でも近所の人たちに炊き出しをしたりしていたニュースを見ました。
激情家ですが他人に優しく思いやりのある方です。
そんな村山さんが阪神の復活を見る前に亡くなってしまったのは本当に残念でした。
地震の心労が重なったのも影響していると思います。
どうか天国から若い猛虎たちに叱咤激励してやってください。

2020年6月 4日 (木)

33大野久

85年の優勝時、一時的に戦列を離れた真弓の代役として
1番打者として起用されたのがルーキー大野でした。
たしかホームラン打ったんじゃなかったかな。
ただ、当時の阪神は選手層が厚かったので
なかなかスタメンでは起用されませんでした。
代走や守備固めで起用されても少しチョンボが多かったような・・。
 
村山監督が就任すると少年隊として売り出されました。
和田、中野と大野のトリオです。
足は速かったしレギュラー2年目には3割を打ちました。
ケガをして開幕から出遅れたのが響いたのか
その年のオフにトレードでダイエーへ。
このトレードは本当に阪神は損をしました。
大野は盗塁王、池田はリリーフで復活。
一方、移籍してきた藤本修は未勝利、
あとはもうほとんど戦力になりませんでした。
だから大野の阪神時代ってとても短いんですよね。
 
背番号が2に変更されてから急にダメになったような。
阪神の背番号2はあまりいい番号じゃないんですよ。
柏原も1年だけの活躍で大野も短命。
高橋慶彦、松永、平尾とパッとしませんでしたね。
城島も1年だけだったし。
 
大野は引退後にアマチュアの指導者として話題になりました。
東海大牛久だったかな?
いろいろ大変みたいですが頑張ってほしいな。
在籍期間が短かったのでこれぐらいしか書けませんが、
けっこう大野は好きだったんでね。
 
韋駄天大野が突撃 嵐を起こせよレッツゴーレッツゴー
セカンド サードにホームスチール 大野は止まらない♬
 
この応援歌、大好きでした(笑)

56御子柴進

やや下手気味のサイドスローの御子柴投手、懐かしいですね。
まぁ、ここで語る選手はみんな懐かしの選手ばかりですが。
ずっと松商学園と思っていたんですが違いました。
1年目で1軍の勝ち投手になっているんですね。
そうはいっても入団3年間で登板数は10試合にも満たず。
阪神の弱体投手陣で出番がなかったのはまだプロの体じゃなかったのでしょうね。
4年目に10試合以上登板して1軍に定着し始めます。
中日とヤクルトに強かった印象があります。
確か唯一の完封勝利はドラゴンズ戦でした。
あの時は阪神の投手が3試合連続完封をしたんです。
それも継投ではなく一人でね。
中日3連戦なのかカードをまたいでなのかは覚えていませんし、
御子柴と久保、もう一人がどうしても思い出せないんです。
89年だから仲田あたりなのかな。
 
得意チームが限定されているので先発ローテーションに固定されることはなく、
もっぱら中継ぎ要員でしたが優勝を争った92年は内容も良かったです。
当面の敵であるヤクルト戦の相性の良さを買われてよく投げました。
先発起用したらもっと面白かったと思うんですけどね。
翌年はさらに登板数が増えましたが防御率は悪化しました。
リリーフには葛西と伊藤敦という同タイプがいたこともあり
だんだんと御子柴の活躍も少なくなりました。
特に引退試合などはすることなくマウンドを去ったと記憶しています。
コーチとしては失格の烙印を押されてしまいましたが、
岡田監督の広報として時々顔を見せました。
御子柴はかなりのイケメンでもっと活躍していれば
さらに人気が爆発したと思いますね。
真弓監督のときからはスコアラーとして阪神を支え今に至ります。
やはり時々テレビに映るんですよね。
すっかり白髪頭になった御子柴を見て
時代は流れたなあとちょっぴり寂しくもなりました。

2020年6月 3日 (水)

28中田良弘

85年の優勝の功労者ですね。
ゲイルとともに弱体先発陣を支えました。
ルーキーのときはけっこう球速もありましたが、
故障もあって緩急を使って打たせて取るピッチングにチェンジしました。
中田といえばやはり無傷の18連勝でしょう。
こう書くと楽天のマーくんみたいですけど、
中田の場合は足掛け5年かかっての記録です。
それもリリーフで投げるとなぜか勝ちがつく幸運がありました。
でもその幸運がちょうど85年に当たったのはラッキーでしたね。
勝ち運を買われたのか途中から先発に回りました。
とにかく負けなかったですね。
最終的には5敗していますが、12勝しているから十分です。
投げていくうちにしっかり試合を作るようになり、
甲子園の広島戦ではなんと初完封。
吉竹が回転しながら飛球をキャッチしたのを覚えています。
中田がグラブを振ると吉竹もそれに応えてかっこよかったですね。
 
この年ですべての運を使ってしまったわけでもないでしょうが、
翌年からは4年間未勝利でした。
登板数が少ないところを見ると故障をしたと思われます。
さすがにもう無理かなと思いましたが、
90年に抑えで復活し10勝を挙げています。
ただ、先発の勝利を消して自分に勝ちがつく展開も多かったです。
抑えで防御率3点台半ばだから威張れた数字ではないですね。
それからはまた未勝利のシーズンが続き、
94年をもって引退しました。
 
ドラフト1位としてはちょっと物足りない通算成績ですが、
85年の優勝をもたらすために存在したような投手でした。
引退後は現場復帰することなく解説をしていましたが、
最近はあまり見かけなくなりました。
あの優勝を思い出すとき必ず思い浮かぶ投手なんですけどね。

2020年6月 2日 (火)

14ジョージ・アリアス

2002年から指揮を執った星野監督が連れてきたのが
オリックスを退団したアリアスでした。
パリーグ時代のプレーもよく見ていましたけど、
あのパワーもさることながら、
守備がものすごく堅実な印象があります。
内野はどこでもこなせる印象がありましたね。
グラブさばきが柔らかくてスローイングが正確でした。
阪神移籍後はもっぱらファーストでしたけど、
片岡が故障したときにはサードを守っていました。
 
バッティングはとにかくよく飛ばすなぁと。
シーズン通して平均して2割5分、35本前後のホームラン。
良くも悪くもこの数字を判で押したように続けました。
ただ巨人戦にはやたらと強かった印象があります。
調子のいいときは右中間に逆らわずにうまく打っていましたね。
長距離打者らしく1ヶ月ぐらいは手がつけられないぐらい打ちまくり
そこからスランプに入るとまた長くなる選手でした。
 
ただ、星野監督時代の活躍が鮮やかで
アリアスがいなかったら優勝できなかったんじゃないかな。
翌年、岡田監督とはちょっとソリが合わない感じで退団しましたが、
個人的には残念でしたよね。
アリアスってけっこう二枚目でかっこよかったです。
退団後、一度巨人で復帰しましたが活躍はできませんでした。
引退後はアメリカで少年野球の指導者をしています。
その様子を動画で見たのですが相変わらず二枚目でした。
日本のことを今も懐かしんでくれて嬉しかったです。
オリックスのこと、そして阪神のことを楽しそうに思い出していました。
巨人時代のことはなかったことになってます(笑)。
 
前述のように守備はうまかったなあ。
新人時代に少しスローイングに難のあった鳥谷がうまくなったのも
アリアスとシーツが一塁にいたからでしょうね。
藤本もアリアスには救われたと思います。
ジョージにはまた日本で指導者になってほしいなと思っています。

20伊藤宏光

万年エース候補、ブルペンエース、年イチ投手。
伊藤の評価ってそんな感じでしたね。
すらりとした体型と長い手足。
惚れ惚れするストレートと背番号20。
どう考えてもエースを張れる器だと思いました。
よく改名する投手でしたが、
85年の優勝したときの名前で紹介したいと思います。
 
ドラフト1位の快速球右腕でしたが、
なかなか勝てないピッチャーでした。
コントロールもそんなに悪くないし真っ直ぐは一級品。
気が弱いというか優しい面がプロで大成できなかった原因ですね。
良くても勝ち負けがトントンで、
大きく負け越すシーズンもよくありました。
期待されたドラフト1位で通算54勝。
ちょっと期待外れですね。
 
ただ、年イチ投手の名に相応しく
本当にシーズンに1度ぐらい素晴らしい投球をしました。
2塁を踏ませないぐらいの完璧な投球を。
背番号20をはく奪された88年、
伊藤は4月から鬼気迫るピッチングをしました。
背番号14をつけた伊藤は2試合連続完封勝利。
3試合連続完封目前で1塁ベースカバーに入ったときに
ランナーに足を踏まれてしまったのが不運でした。
止血をしてマウンドに上がりましたが、やはり降板。
その後はまたいつもの伊藤に戻ってしまいます。
このときに足を踏んだ打者走者が大洋の池之上。
後にスカウトとして阪神へ来たのは何かの因縁でしょうか。
90年代に入っても先発のマウンドに立ちましたが、
往年の球威も失せており引退。
昭和の時代のタイガースを支えた
伊藤、工藤、中田らの引退は寂しいものがありました。
その後は会社員や現場復帰、そして解説者と
意外とマルチな活躍をしています。
解説を聞いていても気が優しいのがよくわかるというか、
選手に対して厳しいことはあまり言わないですね。
常勝チームのときの選手たちも好きですけど、
低迷期を支えた選手たちもやはり思い出深いものがあります。

26工藤一彦

186センチの巨体で長く阪神のマウンドを支えた投手でした。
高校時代は四天王と呼ばれた逸材でしたが、
人気ナンバーワンの定岡よりも長く活躍し
4人の中では勝ち星もいちばん多く積み上げたのが工藤です。
工藤の全盛期はちょうど自分の中学時代と重なります。
当初は背番号19でしたが、ほとんど活躍できないまま
移籍してきた小林繁のためにはく奪されました。
26に変更させられて闘争心に火がついたのか、
一流投手として成長していきました。
83年には13勝を挙げて3完封。立派な数字ですね。
中堅となってからはやや故障に泣かされてしまい、
85年の優勝したシーズンはもっぱら中継ぎをこなしていました。
開幕当初は先発でバックスクリーン3連発のときの勝ち投手です。
 
翌年も中継ぎを中心に5勝負けなし。
ただ防御率はあまり良くない投手で、
低めに集めて打たせて取るタイプでしたね。
87年は最下位に沈んだタイガースですが、
この年の工藤は先発に復帰して2完投。
5月ぐらいの甲子園の大洋戦で久しぶりの完封勝利を挙げました。
この試合はテレビで見ていましたが、
工藤のさして速くもないストレートを
「真っすぐが速くて怖くなった」と言って途中退団した選手がいました。
大洋のレスカーノという選手だったと記憶しています。
まるで草野球のおじさんが投げている感じのフォームでしたよね。
力感もスピードもあまり感じませんでしたが、
同じ時期に主力を務めた伊藤と比較すると、
勝率の良いピッチャーだった印象があります。
好投しても勝てない伊藤とは対照的でしたね。
 
村山監督が就任すると登板数が激減します。
ファームでも一生懸命投げていたことは
当時愛読していた月刊タイガースでも知っていました。
特に引退試合もすることなくひっそりと辞めたような気がします。
勘違いかもしれませんけど。
引退後は現場復帰をすることもなく
ずっとテレビの解説者として活躍しています。
2005年の優勝を決めた巨人戦でも解説していましたね。
引退してしばらくして竹内が26をつけたときは
上背の大きさといい風貌といい工藤が戻ってきたような感じがしました。
華やかな活躍は短期間でしたけど伊藤とともに忘れられない投手です。

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